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大阪地方裁判所 昭和53年(ヨ)3439号 決定

申請人

足立信義

申請人

森本隆頼

申請人

森本宏

右三名訴訟代理人弁護士

大川真郎

(ほか五名)

被申請人

日本シェーリング株式会社

右代表者代表取締役

ヨルグ・グラウマン

右訴訟代理人弁護士

門間進

(ほか二名)

右当事者間の頭書仮処分申請事件について、当裁判所は、申請人らに保証を立てさせないで、次のとおり決定する。

主文

申請人足立信義は被申請人会社の総務部技術課営繕係において労務を提供する義務のないことを仮に定める。

申請人森本隆頼は被申請人会社の総務部技術課において事務専任の職員として労務を提供すべき労働契約上の地位を有することを仮に定める。

申請人森本宏は被申請人会社の製造部品質管理課通関係において労務を提供すべき労働契約上の地位を有することを仮に定める。

申請費用は被申請人の負担とする。

理由

第一当事者の求める裁判

一  申請人ら

1  被申請人の申請人足立信義に対する昭和五三年七月一日付総務部技術課営繕係への配転命令の効力を仮に停止する。

2  申請人森本隆頼は被申請人会社の総務部技術課事務の、同森本宏は製造部品質管理課通関係の地位を有することを仮に定める。

3  申請費用は被申請人の負担とする。

二  被申請人

1  申請人らの本件仮処分申請をいずれも却下する。

2  申請費用は申請人らの負担とする。

第二当裁判所の判断

一  当事者ならびに本件各配転命令の存在

当事者間に争いのない事実および本件疎明資料によれば、次の事実が一応認められる。

1  被申請人(以下「会社」という)は、肩書地(略)に本社、仙台、東京、名古屋等に六支店、さらに全国各地に一〇営業所、七ストック・センター、一五出張所、五分室をそれぞれ置き、西ドイツ所在の西ドイツ・シェーリング・AG・ベルリン・ベルクカーメン株式会社(以下「西ドイツ・シェーリング社」という)から医薬品を輸入し、その製造・販売を業とする株式会社でありその従業員数は昭和五三年七月末現在七六四名(うち本社三三二名)であった。

申請人らは、昭和五三年六月当時、いずれも会社の本社に勤務し、申請人足立信義(以下「申請人足立」という)は製造部保管課物品倉庫係の、申請人森本隆頼(以下「申請人隆頼」という)は総務部技術課事務の、申請人森本宏(以下「申請人宏」という)は製造部品質管理課通関係の仕事にそれぞれ従事していた。

2  ところが、会社は、申請人足立に対し昭和五三年六月二八日口頭で、さらに同年七月四日文書により、申請人隆頼に対し同年六月三〇日口頭で、いずれも同年七月一日付で総務部技術課営繕係勤務を命ずる旨の、また、申請人宏に対し同年六月二八日口頭で、さらに同年七月六日文書により、同年七月一日付で営業本部図書室勤務を命ずる旨の配転命令(以下「本件配転命令」という)を発令した。

3  申請人らは、本件配転命令の効力については異議をとどめながら一応同命令に従って右各部署の仕事に従事してきたところ、会社は、申請人宏に対し昭和五五年七月一日付で、さらに総務部購買課倉庫係勤務を命ずる旨の再配転命令(以下「本件再配転命令」という)を発令した。

二  本件各配転命令の効力

申請人らは、「本件配転命令および本件再配転命令(以下総称して「本件各配転命令」という)は、いずれも、(1)会社が総評合化・化学総連化学一般労連日本シェーリング労働組合およびその所属組合員である申請人らを敵視ないし嫌悪してなした不当労働行為であり無効である。(2)配転にあたって会社が事前に本人の諒解を得るよう努力すべきことを定めた会社就業規則三七条に違反し無効である。(3)業務上の必要性が存しないから権利の濫用であり無効である」と主張するのに対し、被申請人はこれを争うので、以下、まず、右(1)の不当労働行為の成否について判断する。

1  背景事実(会社の従前における反組合的言動)

本件疎明資料を総合すれば、次の事実が一応認められる。

(一) 組合結成の事情

(1) 会社では、昭和四五年度の春季賃金引上げの際、従業員の間に、会社の賃金が同業他社と比較してかなり低額であるとの不満が聞かれたところから、逸早く一部社員を選んで六甲研修所で賃金問題研究会を開いたところ、これを知った従業員から非難の声が出たため、会社は同年六月ころ従業員に対し経営懇談会の設置を呼びかけ、その結果、本社従業員の経営参加、労働条件の維持改善ならびに企業の発展を目的として、同年八月八日正式に本社経営協議会が設置された。そして、昭和四五年度冬季一時金をめぐり、同年一一月五日右協議会の下部機関である常任委員会が開催されたが、その席上、主任会代表および一般従業員代表が会社に対して平均五か月プラス一二万円の要求をしたのに対し、会社は、同月二〇日開催予定の次の常任委員会で回答をする旨約束したにもかかわらず、それ以前の一一月一〇日右冬季一時金を平均四・五か月分支給することを一方的に決定し、その旨を各課長に伝えたため、これに不満を抱いた従業員の間に、本社経営協議会は有名無実であり限界があるとしてにわかに労働組合結成の機運が強まり、結局、会社の従業員のうち医薬品の製造・研究その他事務に従事する本社勤務の従業員(いわゆる内勤者)が中心となって、同月二七日労働組合(以下「日シ労組」という)が結成された。日シ労組は、結成と同時に総評化学同盟に加入し、「総評化学同盟日本シェーリング労働組合」と称していたが、昭和五二年に総評化学同盟が組織変更により総評合化・化学総連化学一般労働組合連合(略称化学一般)となったため、「総評化学一般日本シェーリング労働組合」と改称した。その組合員数は、昭和四八年当時約四〇〇名であったが、その後減少し、同五〇年当時約二一〇名、同五三年当時約一〇〇名であった。申請人らは、いずれも日シ労組結成当初からの組合員である。

(2) 前記のとおり日シ労組が結成されるや、会社の中部地方支配人森田茂夫らの指導の下に、会社の各営業所に勤務する従業員(いわゆる外勤者)が中心となって、昭和四五年一二月一七日全日本シェーリング従業員労働組合(以下「全日シ労組」という)が結成された。全日シ労組は、結成後間もなく全国化学一般労働組合同盟(略称全化同盟)に加入し、全化同盟の方針に従い当初日シ労組を打倒することを第一目標としたが、翌四六年四月四日全化同盟と会社との間に不明朗な関係があると判断して右上部団体から脱退し、その後合成化学産業労働組合連合(略称合化労連)に加入した。その組合員数は、昭和四五年当時約四〇〇名、同五三年当時約三五〇名であった。

(二) 組合結成後の労使間の紛議

(1) 会社は、内勤者および外勤者の食事手当の支給に関して、昭和四七年六月末ころまでに日シ労組に知らせずに賃金規則および旅費規定を改正し、同年四月に遡って、内勤者が外勤をして日当が支給される場合には食事手当が支給されないのに反し、外勤者が外勤をすると日当のほかに食事手当(一日につき一二〇円)が支給されるように従来の取扱いを変更した。このため、日シ労組は、会社との団体交渉において会社に対し、内勤者にも同年四月に遡って月額三〇〇〇円(一二〇円×二五日)を支給することなどを要求し、右要求を貫徹するため、昭和四八年二月五日から商品の入出庫部門を中心として部分ストを行った。同月一六日右食事手当問題に関する日シ労組と会社間の団体交渉が終了した直後、会社の労務担当最高責任者で、のち同年六月副社長に就任した小倉義昌(以下「小倉副社長」という)は、就業中の本社従業員に対し、社内放送を通じて食事手当問題に関する交渉経過と会社提案の大要を説明したが、その際同人は、「組合のストライキが続けば、近い将来会社の破滅の日が来ることは明らかである」旨および「親会社である西ドイツ・シェーリング社はストライキの影響を避けるため他社に生産・販売を任せたりすることが考えられる」旨の発言をした。

日シ労組は、小倉副社長の右発言および後記(3)の会社の行為は組合運営に対する支配介入であるとして、同年五月一一日会社を相手どり大阪地方労働委員会(以下「大阪地労委」という)に不当労働行為の救済申立てを行った(昭和四八年(不)第二五号事件)。

(2) 日シ労組の組合員は、昭和四八年四月一一日午前中、拡大闘争委員会および執行委員会の決定に基づいて、賃金引上げ等の春闘要求を実現するため、会社正門前から会社構内にかけてピケッティングを張りスクラムを組んでいたところ、出社してきた小倉副社長ら会社職制八名が入構しようとした際、右組合員らと職制らとの間で小ぜり合いやもみ合いが生じ、その結果小倉副社長ら四名が通院加療五日ないし一週間を要する傷害を負った。小倉副社長ら八名は、同月一八日右の事実について申請人隆頼、同宏を含む日シ労組の組合役員らを傷害罪、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反罪で十三警察署に告訴した。これに対し、日シ労組は右ピケッティングに際し暴行を働いたのは会社側であるとし、その行為および右告訴は組合運営に対する支配介入であるとして、同年七月二四日会社を相手どり大阪地労委に不当労働行為の救済申立てを行うとともに(昭和四八年(不)第四八号事件)、右組合の執行委員長山田鼎および書記長申請人隆頼は、同年一〇月四日会社職制八名を誣告罪で告訴した。

(3) 会社の部長、次長、課長らは、昭和四八年四月二四日から同月二六日にかけて、秘書課および通関課を除く全職場において従業員らを集め、経理内容説明会を行い、その席上、日シ労組には未だ提示していなかった賃金引上げ等に関する全日シ労組への第二次回答の内容等について説明し、その内容で妥結して欲しい旨述べるとともに、「四月一一日ピケッティングに伴い暴力行為がなされたが、それは日シ労組の執行部が指導したものであり、また同日以降同組合との団体交渉が行われていないのは、同組合が右暴力行為について陳謝、誓約しないからである」などと発言した。

(4) 会社は、昭和五〇年二月三日当時六級職で主任であった日シ労組の執行委員長山田鼎および書記長申請人隆頼に対し、同人らが前記(2)のピケッティングをめぐる紛議の際組合員らを指導し、あるいは自ら会社職制らに暴行を加え、小倉副社長らを負傷させ、故なく前記告訴をしたということを理由に、それぞれ五級職に降格し、かつ主任を免ずる処分をした。日シ労組は、同月一八日会社を相手どり右の事実について大阪地労委に不当労働行為の救済申立てを行った(昭和五〇年(不)第一二号事件)。

(5) 大阪地労委は、前記昭和四八年(不)第二五号事件同年(不)第四八号事件および同五〇年(不)第一二号事件を併合して審査した結果、昭和五一年九月二四日、同四八年(不)第四八号事件については、小倉副社長らのなした告訴は会社の職制らが暴行、傷害をねつ造してなした不当なものであるとの日シ労組の主張は理由がないとしてその申立てを棄却したものの、他の二件については、小倉副社長のなした社内放送は当時の日シ労組の争議戦術を全従業員を前にして非難し、同組合員の動揺を誘い、もって同組合の弱体化を図ったもの、経理内容説明会における発言は会社が不当労働行為意思に基づき同組合員の動揺離反を図ったもの、山田委員長らに対する降格処分は同人らの組合活動を嫌悪してなしたもので、前二者は労働組合法七条三号に、後者は同法七条一号にそれぞれ該当する不当労働行為であるとして日シ労組の主張をほぼ全面的に認め、会社に対し、後者の不当労働行為につき、山田らに対する降格処分がなかったものとして取り扱わなければならない旨の命令(主文第一項)および前二者の不当労働行為につき、いわゆるポスト・ノーティス命令(主文第二項)を発した。会社は、これを不服として中央労働委員会(以下「中労委」という)に再審査を申し立てたが、中労委は、昭和五三年三月一五日大阪地労委の初審命令をほぼ全面的に支持し、同命令主文第二項を、会社は下記内容(省略)の誓約書を日シ労組に手交しなければならないと変更する、その余の再審査申立てを棄却する旨の再審査命令を発した。なお、大阪地方検察庁は、これより先の昭和四九年一〇月二二日前記傷害罪等の告訴事件について、同五〇年二月二六日前記誣告罪の告訴事件についてそれぞれ不起訴処分にした。

(三) EDP課の廃止およびこれに伴う同課所属組合員の配転

(1) 会社は、昭和四四年一〇月ころコンピューターの導入計画を立て、同四五年一〇月経理部に電算機課(EDP課の前身)を設置して会社業務の電算機化の準備作業を開始し、同四六年一〇月高千穂交易株式会社(以下「高千穂バロース」という)から電算機の本体を、日本アイ・ビー・エム株式会社(以下「IBM」という)からその周辺機器をそれぞれ賃借し、電算機を社内に導入するとともに、同四七年一月からコンピューターを稼働させた。EDP課においては、営業会計事務、第一次販売(会社から問屋に商品が販売される過程)統計、第二次販売(問屋から病院または開業医に商品が販売される過程)統計、営業所在庫など大別して八システムのコンピューター処理を行っていた。

(2) 昭和四七年七月ごろ以降、パンチャーの中から頸肩腕症候群(いわゆるけんしょう炎)患者が発生したため、EDP課の課員は会社に対して作業環境の改善などを要望し、その殆どが受け入れられた。このため、昭和四八年八月以降には新たなけんしょう炎患者は発生しなくなった。しかし、同年一〇月ころから、パンチャーのけんしょう炎による就業率の低下、営業所からの販売伝票送付体制の不備などによって、パンチ業務の遅れが積もり始め、同四九年三月ころにはその遅れがピークに達したが、同年四月からマスター・メンテナンスという便宜的方法が採り入れられた結果、後記EDP課の廃止時点までにはパンチ業務の遅延は解消されていた。

(3) しかるに、会社は、昭和四八年六月ころから、密かに高千穂バロースの子会社であるティ・シー・シー株式会社(以下「TCC」という)に対して電算機処理業務の代行に伴う諸経費の見積りを求めるなどして、電算機業務の外部への委託を検討し、外注準備を進め、同四九年四月から七月にかけて会社の意向を受けて会社および高千穂バロースの各従業員は、日シ労組組合員の目を避けるため深夜に会社のコンピューター・ルームに入り、マスター・テープなどのコピーをした。そして、会社は、同年七月からTCCにコンピューター業務を委託し、TCCは、一か月近く電算機稼働のためのテストを繰り返し、EDP課廃止通告日までには下準備が完了し、EDP課を廃止しても業務に支障が生じない体制ができ上っていた。

(4) 会社は、昭和四九年一〇月初めころ、EDP課の廃止およびそれに伴う電算機業務のTCCへの委託を正式に決定した。TCCによる業務処理は、その後スムースにその機能を開始し、会社は、同年一〇月五日高千穂バロースに対し電算機賃貸借契約の解約を、また同月二五日IBMに対し周辺機器賃貸借契約の解約を通知した。しかし、会社の前記外注準備やTCCに対するコンピューター業務の委託、高千穂バロース等との契約の解約通知は、日シ労組およびEDP課の課員には一切知らされていなかった。会社は、同年一〇月二一日日シ労組に対し、「電算機導入当初の目的が全く達成されていないうえ、長期にわたるストライキや多数のパンチャーのけんしょう炎と称しての異常な低就業率によるアウトプット資料の遅れは数か月にも及び、電算機利用の意味を全く無にする事態を呈している。一方、その運営費用は、当社の経済的負担の限界をはるかに越えるに至っている。現状のままでの電算機の有効な利用は期待できないとの結論に達し、会社は昭和四九年一〇月末日をもってEDP課廃止を決定した」旨文書で通告するとともに、EDP課廃止に伴う課員の配転を行うとの態度を示した。

(5) ちなみに、日シ労組結成以降前記EDP課廃止通告を受けるまでの間、同課課員の中から多数の同労組組合役員が選出されており、しかも副委員長など重要な役員に就く者が多かった。また、同課課員中殆どの者が同労組の執行委員、職場委員などの経験を持ち、青年対策部、婦人対策部、教宣部などの専門部の部長等として積極的に組合活動を行っていた。

(6) 小倉副社長は、昭和四九年一一月九日会社と日シ労組との団体交渉の席上、「EDP課を廃止した基準の一つに課員が全員日シ労組の組合員であり、EDP課が同組合の拠点となっていることが挙げられる、会社としては電算機の必要なことは十分承知しているので、二、三年後に計画と準備を整え、経営上役に立つようにしてからまた使う、その場合は社長の直轄とし、非組合員のみで構成する」旨発言した。

(7) 会社は、その後最終的に、申請人足立、同隆頼を含む一般職種者一四名に対して同年一二月二日付で(ただし、うち三名は同年一一月一四日付、一二月九日付および同五〇年四月八日付発令)それぞれ配転を命じ、さらに職種特約者八名(ただし、うち一名は昭和四九年一一月三〇日付退職)に対して同年一二月二三日付で(ただし、うち一名は翌二四日付発令)それぞれ配転を命じた。

(8) 日シ労組および申請人足立、同隆頼ほか九名は、前記のような会社のEDP課の廃止およびこれに伴う同課所属組合員の配転は不当労働行為であるとして、大阪地労委にその救済の申立てをしたところ、同地労委は、昭和五五年六月六日、前記(1)ないし(7)の事実等を認定したうえ、「EDP課が廃止に至る諸事情を総合して考えると、EDP課廃止についての会社の挙げる理由は合理性を欠き、会社のEDP課を廃止した真意は、会社の中枢機構に属するEDP課が日シ労組の拠点となっていることを好まない会社が、同組合を壊滅ないし弱体化する意図をもってEDP課を廃止し、同労組組合員を電算機業務から排除するにあったものと判断せざるを得ず、したがってEDP課廃止の行為は、労働組合法七条三号に該当する不当労働行為といわざるを得ない。そうすると、EDP課の廃止を理由とする配転もまた同法七条一号および三号に該当する不当労働行為と判断せざるを得ない」として、会社に対し、EDP課を廃止して同課の日シ労組組合員を配転したことにつき、いわゆるポスト・ノーティス命令を発するとともに、申請人足立らが将来電算機業務への配転を希望した場合、優先的に同人らを同業務に就かせなければならないとの命令を発した。

(四) 守る会の結成

会社では、昭和四八年一二月ごろから非組合員である会社職制らを中心に反執行部的な組合員を育てる動きが始まり、右会社職制らは同四九年春闘中の四月ごろから日シ労組の組合員に対し組合脱退を勧誘した。二〇数名の反執行部的な同組合員と小倉副社長ら会社役員および職制は、同年六月八日夕刻、従業員の新しい組織をつくるなどのため会合した。そして、日シ労組や全日シ労組を脱退した者などを中心に、労使の対立を避け、生活の基盤たる会社の発展向上を期し、自らの手で職場と生活を守ることを目的として、同月一九日「職場と生活を守る会」(以下「守る会」という)が結成され、八〇数名の日シ労組組合員が同組合を脱退して守る会に加入した。EDP課員は全員日シ労組の組合員であったが、その中には会社職制から脱退を勧誘された者はおらず、同組合を脱退した者もいなかった。

(五) 日シ労組の団体交渉権行使に対する制限

(1) 会社は、昭和五〇年度冬季一時金、同五一年度賃金引上げ、同年度冬季一時金および同五二年度賃金引上げの各団体交渉において、一貫して日シ労組からの団体交渉申入れに応じないか、あるいはそれに対する回答として、会社から同組合に対して日時・交渉時間(おおむね一時間から二時間以内)・出席人員(昭和五〇年度冬季一時金交渉では双方各七名以内、同五一年度賃金引上げ交渉時に至り双方各五名以内、その後同五二年度賃金引上げ交渉時では双方各四名以内)を指定ないし制限し、かつ、会社の申入れに対し同組合から応諾する旨の文書回答があり次第場所を通知する旨附記して(場所はすべての団体交渉において会社から電車で約三〇分のところにある会社外の淀川産業会館と指定された)、団体交渉を申し入れ、同組合がこの会社の申入れに応諾しない限り団体交渉を行わないとの態度を固執した。

(2) 日シ労組は、前記のような団体交渉に関する会社の行為は不当労働行為であるとして大阪地労委に救済を申し立てたところ、同地労委は、昭和五五年六月六日前記(1)の具体的事実を認定したうえ、「会社において右認定のような団体交渉条件を設けなければならない特別の事情が存したことを疎明する資料はなく、会社の団体交渉に関する以上のような行為は日シ労組の団体交渉権の行使を著しく制限するものといわざるを得ない。また、会社は、日シ労組組合員の労働条件に関する重要な問題について、昭和五〇年度冬季一時金、同五一年度賃金引上げ、同年度冬季一時金および同五二年度賃金引上げの各団体交渉において誠意をもって団体交渉に臨んだものとはとうていいえない。以上のことにより団体交渉に関する会社の前記一連の行為は、労働組合法七条二号に該当する不当労働行為である」と判断して、会社に対し、会社は日シ労組からの団体交渉の申入れに対し日時・交渉時間・場所・出席人員・議題を一方的に指定することなく誠意をもって速やかに団体交渉に応じなければならないとの命令を発した。

(六) 昭和五一年度夏季および冬季一時金の組合間差別

(1) 全日シ労組は、昭和五一年六月二五日会社との間で、同年度夏季一時金について、「基準内賃金(住宅手当を除く)×二・四か月分とする。ただし、考課査定を行う」旨の協定を締結した。右の「考課査定を行う」というのは、考課査定を実施して上積み支給額を決定するという内容であり、いわゆるプラス・アルファーのことを意味していた。日シ労組は、会社との間で昭和五一年度夏季一時金の協定を締結するにあたり、同年八月二〇日会社に対し、協定の成立によって会社の違法行為、差別の事実を認めるものではない旨通告したうえ、同日会社との間で、右夏季一時金について全日シ労組の場合と同一内容の協定を締結した。そして、昭和五一年七月九日全日シ労組組合員に対し、同年九月二日日シ労組組合員に対しそれぞれ同年度夏季一時金が支給されたが、実際の平均支給月数は、考課査定の結果、全日シ労組組合員の場合二・八か月、日シ労組組合員の場合二・四二四か月であった。

また、全日シ労組は、昭和五一年一一月二九日会社との間で、同年度冬季一時金について、「〈1〉支給月数は昭和五一年一一月度基準内賃金(住宅手当を除く)の三・四か月とする。ただし、考課査定を行う。〈2〉同年四月一日以降入社した者については三・〇か月を限度として勤務時間に応じて支給する。ただし、考課査定を行う。〈3〉対象者は同年一一月二一日以降入社した者を除く冬季一時金支給日在籍正社員とする」旨の協定を締結した。日シ労組は、昭和五一年内に同年度冬季一時金の支給を受けるため、やむなく同年一二月三日会社との間で、右冬季一時金について全日シ労組の場合と同一内容の協定を締結した。そして、同月一〇日全日シ労組および日シ労組の各組合員に対しそれぞれ右各協定に基づいて昭和五一年度冬季一時金が支給されたが、実際の平均支給月数は、考課査定の結果、全日シ労組組合員の場合三・七か月、日シ労組組合員の場合三・四四七か月であった。

(2) 日シ労組は、昭和五一年度夏季および冬季一時金について同組合員に対する支給額を全日シ労組組合員に対するそれよりも低くしている会社の行為は不当労働行為であるとして大阪地労委に救済を申し立てたところ、同地労委は、昭和五五年六月六日前記(1)の具体的事実を認定したうえ、「会社は、昭和五一年度夏季および冬季一時金について考課査定の内容およびその実績評価などを日シ労組に十分説明しておらず、しかも、同組合員の勤務成績等において、全日シ労組組合員との間に差異が生ずる合理的な理由が存するとの疎明を何ら行っていない。したがって、考課査定により全日シ労組組合員と比べ日シ労組組合員に少なく支払われている事実に対して、それを正当視し得る合理的理由を会社が疎明していない以上、日シ労組の主張を認めざるを得ず、結局、会社の右各一時金に関する行為は、同一時金について日シ労組組合員と全日シ労組組合員とを差別し、もって日シ労組の弱体化を企図したものと判断せざるを得ず、労働組合法七条一号および三号に該当する不当労働行為である」と判断して、会社に対し、会社は日シ労組組合員に対し昭和五一年度夏季一時金における査定を次のように(省略)是正し、それによって算出した金額と既に支給した金額との差額を支払わなければならないとの命令を発した。

(七) 八〇パーセント条項および妥結月払条項の導入

(1) 日シ労組は、昭和五一年度賃金引上げについて、同年八月六日会社との間で、「〈1〉賃金引上げ率を昭和五〇年度基本給に対し平均八・八パーセントとする。〈2〉賃金引上げ対象者は妥結時在籍者とする。ただし、雇員・アルバイト・昭和五一年一月一日以降入社した者および稼働率八〇パーセント以下の者を除く(以下、稼働率八〇パーセント以下の者を賃金引上げ対象者から除外するとの条項を「八〇パーセント条項」という)。〈3〉新賃金は妥結した月より適用する(以下この条項を「妥結月払条項」という)」旨の協定を締結した。そして、右稼働率算出の方式は、所定労働時間から逸失時間を控除した時間を所定労働時間で除して求めるものとし、所定労働時間とは年間総労働時間を指し、逸失時間には遅刻・早退・欠勤・私用外出・年次有給休暇・生理休暇・慶弔・妊婦通院休暇・産前産後休暇・労災休業・労災通院・組合活動およびストライキによるすべての不就労時間が含まれるものとし(なお、実際には右項目のほかに育児時間・育児休暇・交通機関の延着による不就労時間も逸失時間に算入された)、対象期間は昭和五〇年一月から一二月までの期間とされた。日シ労組は、さらに昭和五二年度賃金引上げについても、同年六月三〇日会社との間で、〈1〉賃金引上げ率を「昭和五一年度基本給に対し平均一〇パーセントとする」、〈2〉賃金引上げ対象者の除外者のうち「昭和五一年一月一日以降入社した者」を「同五二年一月一日以降入社した者」、対象期間を「昭和五一年一月から一二月までの期間」とするほかは、昭和五一年度賃金引上げの場合と同一内容の協定を締結した。しかし、日シ労組は、右両協定中の八〇パーセント条項、妥結月払条項等については争う権利を留保しており、会社もそのことについて了解していた。なお、日シ労組結成以来、賃金引上げは妥結が四月以降になった場合でも四月に遡及して実施されていた。

(2) 日シ労組は、会社の前記八〇パーセント条項および妥結月払条項の導入は不当労働行為であるとして大阪地労委に救済の申立てをしたところ、同地労委は、昭和五五年六月六日、八〇パーセント条項については、「当時会社において八〇パーセント条項を導入せざるを得ない特別な事情は存在しなかったこと、八〇パーセント条項そのものが著しく日シ労組ないし同組合員の権利行使を制限するものであり、しかもその導入を正当視しうる合理的理由が認められないことなどの諸事情を総合して考えると、八〇パーセント条項を導入した会社の行為は、日シ労組の組合員に組合活動上、経済上の不利益を及ぼし、もって同組合の弱体化を図ったものと判断せざるを得ない」、また、妥結月払条項については、「従来行われていた四月遡及支払を変更するにはそれなりの理由の存することが必要であるが、会社はその点につき何ら疎明していないことなどの諸事情を総合して考えると、会社は、一方で、八〇パーセント条項という日シ労組にとってとうてい容認しえない制度の導入を図り、これを早急に実施するために、他方で全日シ労組組合員には不利益が及ぶことを避けつつ、交渉が長期化するほど日シ労組にとって不利益が拡大する妥結月払条項を導入したものと判断せざるを得ない」として、会社の右各条項を導入した行為をいずれも労働組合法七条一号および三号に該当する不当労働行為であると判断したうえ会社に対し、会社は右各条項を撤回し、八〇パーセント条項該当組合員に対しそれぞれ四月に遡って昭和五一、五二年度賃金引上げが実施されたものとし、各賃金引上げ相当額を支払うなどの措置を講じなければならないなどの命令を発した。

(3) なお、申請人宏ほか一六名は、昭和五二年三月八日被申請人を相手どり、右八〇パーセント条項や妥結月払条項の違法無効を主張して賃金引上げに相当する賃金、一時金等の支払を求める民事訴訟を大阪地方裁判所に提起したが、同地方裁判所は、昭和五六年三月三〇日、「右八〇パーセント条項は強行法規である労基法三九条等の強行法規や民法九〇条の公序良俗に違反して無効というべきである。妥結月払条項は強行法規秩序や信義則に反するものというべきであるから、この点で無効というべきであるし、また、日シ労組が八〇パーセント条項および妥結月払条項を受諾するに至るまでの会社の団体交渉態度は、使用者としての誠実な団体交渉を怠り、ひいては日シ労組の組合運営に対する支配介入ともなるのであって、不当労働行為を構成するものと認めるのが相当であるから、妥結月払条項はこの点でも無効というべきである」旨判示して、請求を一部認容する判決をした。

(八) チェック・オフの中止

(1) 会社は、昭和四六年から同五二年二月に至るまで日シ労組の労働組合費、労働金庫積立金等について毎月チェック・オフを実施してきており、これを明確にするため昭和四七年および同五〇年三月一七日に同組合との間で賃金控除に関する協定を締結した。しかるに、会社は、対象者である現在の在籍組合員が明確でないとか、チェック・オフを行う根拠が不明であるということなどを理由として、昭和五二年三月ないし五月分の各賃金から毎月の定期組合費、臨時組合費および労働金庫積立金のチェック・オフを実施しなかった。その後会社は、日シ労組からの依頼に基づき、同年六月分の賃金から定期組合費、労働金庫積立金に関するチェック・オフを再開したが、臨時組合費のチェック・オフは依然として実施しなかった。

(2) 日シ労組は、会社の前記チェック・オフの中止は不当労働行為であるとして大阪地労委に救済の申立てをしたところ、同地労委は、昭和五五年六月六日、「昭和四六年以降本件問題が発生するまで、賃金控除に関する協定に基づき臨時組合費のチェック・オフが実施されており、右協定中の「労働組合費」の中に臨時組合費を含むということに関して解釈上の疑義は生じていなかったこと、臨時組合費のチェック・オフを中止する合理的理由は存しないことなどの諸事情に照らし合わせて考えると、会社は日シ労組を弱体化するために協定を無視して一方的に臨時組合費のチェック・オフを中止したものと判断せざるを得ず、かかる会社の行為は労働組合法七条一号および三号に該当する不当労働行為である」と判断して、会社は日シ労組の臨時組合費についてチェック・オフを再開しなければならないとの命令を発した。

(九) 会社職制らの日シ労組組合員に対する脱退工作

(1) 田辺広之は、日シ労組結成当初からの同組合員で、教宣部員などをして積極的に組合活動をしてきたものであるが、昭和五三年二月総務部購買課から同部庶務課に配転された。同人は、同年六月初めころ大沢高明総務部次長から、「君には他の良い仕事をして貰わなければならない。そのためには組合をやめて貰いたい。あなたとは同県人のよしみでもあり、組合を抜けて頑張って欲しい」と言われ、露骨な組合脱退工作を受けた。同人は、これを拒否したところ、わずか四か月後の同年六月一三日に総務部庶務課から同部サービスチームに配転されている。

(2) 志水弘は、日シ労組結成当初からの同組合員であるが、昭和五三年七月一日付で製造部保管課物品倉庫係から総務部庶務課に配転された。同人は配転早々の同月三日大沢総務部次長に呼ばれ、応接室において、垣見満総務部長、長谷川龍男保管課長、山本孝之購買課長代理ら立会の席で、同次長から、「君は総務全体を知る意味から郵便を担当して貰う。今までの事は忘れ三六〇度回転して今日から総務部の一員として頑張って欲しい」と言われ、その際垣見部長からも、「男は三〇歳から三五歳までが仕事をやれる時だ。……君も名前を言わなくても分かると思うが、四〇歳になっても仕事がない人がいる。そういうことのないように頑張ってくれ」「業務上知り得た事は組合にしゃべってはいけない」と言われた。さらに、志水弘は、同月七日大沢次長に呼ばれ、井上主任立会の席で同次長から、右志水が同月五日に抗議文を提出したことをとがめられ、次いで「私は君に組合を抜けて貰いたいと思っている。君の将来を考え、家族のことを考えれば分かるだろう。……組合員であればストライキを打つので重要な仕事は任せられない」と言われ、同席していた井上主任もこれに同調した。志水弘は、その後七月一二日にも大沢次長に呼ばれ、応接室において同次長から、組合脱退に関する返事を求められた際、「組合員は現在一〇〇名ちょっとしかおらん。……しかし、五年、十年としていくと組合員はか細くなって行く。君も主任、係長、課長代理となって行かなあかんやろ。非組の者が重要なポストに就いているのや。今が決断の時や」と言われ、露骨かつ執拗に組合脱退の決断を迫られた。

2  本件各配転命令に至る経緯等

本件疎明資料を総合すれば、次の事実が一応認められる。

(一) 申請人足立について

(1) 申請人足立は、高校卒業後新聞紙上の事務職員募集広告に応募して昭和四二年四月一八日付で被申請人会社に入社し(当時珠算三級、簿記二級の資格を有していた)、約一年間当時の東京本社経理部門に勤務したのち、同四三年四月から大阪本社経理部において主として問屋、医院等得意先別の売掛代金債権の管理を中心とする経理業務に携わった。同申請人は、その後前記コンピューターの導入計画に沿って経理部門コンピューター化の要員として選ばれ、他部門から選ばれた申請人隆頼らと共に社外の専門学校に通学し、昭和四四年一〇月から六か月間、続いて同四五年六月から三か月間講習を受けて、プログラマーおよびシステム設計者の資格を取得したうえ、同年一〇月経理部電算機課(EDP課の前身)に配転され、経理部門コンピューター化の準備に当たった。昭和四六年一〇月会社にコンピューターが搬入され、翌四七年一月からその稼働を開始するや、申請人足立は、システム設計やプログラミングの業務に携わり、コンピューター使用による債権管理、販売統計、原価計算、給料計算等の経理業務に専従してきたが、前記経過により同四九年一〇月二一日EDP課が廃止されたのに伴い、同年一二月三日製造部商品課(昭和五一年五月六日保管課と改称)原料製品係に配転され、以後西ドイツ・シェーリング社から輸入された医薬品原料を解梱したり、製品化された薬品を梱包し全国の営業所に発送する等の筋肉労働を伴う現場作業に従事した。

ところが、同申請人は、約三〇キログラムに及ぶ重量物を運搬するなど従来経験したことのない現場作業に急に携わったため、この仕事に就いてすぐの一二月七日突然腰痛を自覚し、会社の指示により同月一一日から翌五〇年六月ころまで大阪市内の東淀川病院に通院して治療を続け、その間同病院勤務の産業医段原医師の指導により、造影剤の検品準備、坐薬の検品、大阪営業所への製品運搬手伝い等の軽作業に従事した。同申請人は、申請人隆頼ら日シ労組組合員と共に昭和五〇年会社を相手どり、EDP課の廃止およびこれに伴う同課課員の配転は不当労働行為であると主張して、同課の仕事をさせるよう大阪地労委に救済の申立をした。やがて腰痛が快方に向かい、昭和五〇年六月ころ段原産業医の指示に基づき他の係員と同じ作業に戻ったが、同年秋ころから腰痛に加え、手足・背中の痛みを自覚し始め、翌五一年二月にはその痛みも強まったため、同月七日ころから西宮市立中央病院に通院するようになった。同病院においてレントゲンによる診断の結果、病名は腰痛症・頸肩腕障害、腰痛の原因は腰部関節の異常によるもので、その他身体の痛みも含めて軽作業の必要性から職場を変えた方がよい旨の診断を受けたため、右診断書を会社に提出して補佐的な軽作業に変えて貰った。申請人足立は、昭和五一年二月、六月、七月と再三垣見総務部長ら上司に対し書面で同人の経歴や健康に見合った職場に配転して欲しい旨要請した結果、同年七月健康上従前の職場よりも望ましいとして製造部保管課物品倉庫係に配転された。

ところで、産業医の段原医師は、申請人足立の右腰痛症等が会社の業務に起因するものかどうかを解明するため、自ら精密な医学的調査をすることも、西宮市立中央病院の同申請人の主治医に照会することもしなかった模様で、会社側は一方的に右腰痛症等を業務外による疾病として取り扱ったので、同申請人は、昭和五一年七月一〇日会社に対し、協定による労働災害法外特別補償規定中、「業務上か否かの判定において疑義を生じた場合は、使用者による業務外であるとの立証のない限り業務上として扱う」との条項を援用してその点の釈明を求めたが、会社からは何らの回答もなかった。ちなみに、同申請人は、昭和四八年ころ同人の兄宅の引越し時に冷蔵庫をかつぎ、「ぎっくり腰」になったことがあるが、そのときの既往症と商品課原料製品係勤務後発病した腰痛症等との因果関係については、これを認めるに足りる証拠はない。以上のような事実関係等に照らせば、商品課原料製品係勤務後発病した申請人足立の腰痛症等は、会社の業務に起因して生じたものと推認される。なお、同申請人は、保管課物品倉庫係に配転後も神戸大学医学部附属病院にて加療を受けたが、昭和五一年七月二二日付の同病院内科医師の診断書によれば、腰椎変形症・末梢性神経炎と診断され、「右疾患のため治療中であり重労働や筋肉労働は避けて下さい」と付記されている。

申請人足立が配転された製造部保管課物品倉庫係は、同申請人のほか山田鼎、西村恭子、志水弘、和歌橋詳雄ら、いずれも日シ労組の組合員である五名の職員で構成され、その所管業務は各種事務用品・印刷物・学術文献類の受入れ・保管・発送、在庫台帳の作成、事務消耗品の発注・検収・伝票の作成等の仕事であったが、係員一人当りの負担量はそれほどではなく、同申請人の仕事としては伝票の発行、在庫台帳への記入、コンピューター業務に関する経時集計、インプット・データーの作成等で、一日の大半を机上で処理する事務的な軽作業であった。

(2) 申請人足立は、日シ労組結成の発起人となり、昭和四五年一一月二七日同組合の結成と同時に会計監査、職場委員の任務に就き、教宣部に所属し宣伝活動に参加してビラの発行に携わった。昭和四六年八月の第二回定期大会において執行委員に選出されて以来同五二年八月まで六期連続して執行委員をつとめ、そのうち前半四期は会計を担当した。この間、同申請人は、昭和四七年一一月以降前記食事手当問題をめぐる組合間差別反対闘争等に対する支援要請のため、地域・産別の労働者へのオルグ活動に従事し、昭和四八年四月から前記暴行傷害事件、告訴問題について大阪地方検察庁に提出する陳情書の署名を集めるため地域・産別の労働者に対する大オルグ活動の先頭に立ち、昭和四九年六月の守る会結成に対しては、日シ労組組合員宅へのオルグ活動や団結強化のための宣伝活動に参加し、同年一〇月のEDP課廃止およびこれに伴う同課所属の日シ労組組合員に対する配転に対しては、その当該本人として、また執行委員としてこれに反対して同課所属組合員の団結強化を指導し、EDP課廃止の通告後約二か月にわたって「EDP課の存続と発展のために」の日刊ビラを発行したり、約四〇日間にわたってコンピューター関連機械の搬出強行反対のための泊り込み活動を続けるなど、常に日シ労組組合員の先頭に立って活発な抗議行動やオルグ等の組合活動を行った。同申請人は、引続き執行委員として、昭和五〇年八月から翌五一年八月まで組織部長、同年八月から翌五二年八月まで書記局員をつとめたが、同年八月腰痛等の治療に専念するため、やむなく執行委員をやめ他の人と交代した。なお、申請人足立は、昭和四八年五月組合が初めて大阪地労委に不当労働行為の救済申立てをして以来現在まで申請人隆頼、同宏と共に地労委、中労委、地方裁判所等の審問や裁判闘争の衝に当たるいわゆる法廷闘争対策メンバーの一員に選ばれ、弁護士代理人と共に訴訟等の活動を続けてきた。

(3) 会社は、昭和五三年五月一五日付で申請人足立の勤務場所であった製造部保管課物品倉庫係の事務を合理化して同係を廃止し、同係で従来所管してきた残余の業務は総務部購買課倉庫係において引き継ぐ旨の組織変更を決定し、翌一六日社内に文書で発表した。

申請人足立ら物品倉庫係の職員は、右組織変更が全く予期しない突然のことであったため、長谷川龍男保管課長にその内容について尋ねたが、同課長からは一切分からない、分かり次第早目に知らせるという返事しか得られなかったので、何回か問い合わせをしながらその連絡を待っていたところ、同年六月二八日午前長谷川課長が物品倉庫係の部屋に来て同係の職員四名全員(和歌橋は既に総務部サービスチームに配転されていた)を集め、各人の配転先について、申請人足立は総務部技術課営繕係、山田、西村は同部購買課倉庫係、志水は同部庶務課にそれぞれ内定したと報告した。その際、申請人足立は、長谷川課長に対し、自分の健康上の障害を憂慮して配転先の具体的な仕事の内容について質問し、さらに各人の今後の仕事の内容についても説明すべきであるとして抗議したが、同課長は、右事項については一切知らないと答え、ほんの数分でその場から立ち去った。そこで、同申請人ら物品倉庫係の職員は、翌二九日長谷川課長のもとに抗議に出かけたところ、同課長から同日午後物品倉庫係の部屋に出向くという返事であったので、待っていたが来ず、さらに再び抗議に行くと、今度は翌三〇日午前に出向くといって引き延ばされた。同申請人は、六月二九日午後垣見総務部長、近藤製造部長、長谷川保管課長宛に、自分の健康状況を説明したうえ、今回の配転は私に対する健康破壊と職場排除を意図して決定された不当なものであり、厳重に抗議しこれに応じられないことを表明する旨の「抗議ならびに要求書」を提出した。同月三〇日午後零時四五分から急に製造部会が開催され、そこで申請人足立らに対し一連の配転が人事異動として発表された。長谷川課長は、右部会終了後の午後三時ころ物品倉庫係の部屋に出向き、同申請人らに対し七月一日付で配転先に行って貰う旨伝えた。その際同申請人らは、同課長に対し配転先の仕事の内容が分からない、五月一七日、一八日ころ総務部サービスチームに配転された和歌橋の場合は事前に仕事の内容について長谷川課長や受入れ側の課長から説明を受けているのに我々に対してはどうして異った取扱いをするのかと抗議したところ、同課長は、太田次長からその点の説明を受けてくるといって一たんその場を去り、再び戻って来て、同申請人らに対し仕事の内容は配転先に行けば分かるということだったと報告した。

申請人足立が七月三日(一日、二日は休日)朝出勤すると、掲示板に配転の告示がしてあり、タイムカードも製造部保管課から総務部技術課に移動されていた。そして、同日午前一一時三〇分ころから応接室で初めて個々人に配転についての説明がなされ、同申請人は、垣見総務部長、中川技術課長心得から、仕事の内容は大工の手伝い、物の運搬、棚の組立て、バレーコートの除草等であると説明を受けた。同申請人は、健康上の理由から右配転には応じられないとしてこれを拒否する態度をとったが、垣見総務部長は、会社が決めた配転には従って貰う、その理由として物品倉庫係の仕事がなくなったことをあげた。同申請人は、本件配転命令をあくまで拒否すれば会社から解雇される危険もあると考え、やむなくこれに応じることとし、物品倉庫係での残務処理をすませたのち、同月六日午後一時総務部技術課営繕係の部屋に移った。

(4) 申請人足立が総務部技術課営繕係に配転された当時、技術課の設備係には三宅、芦田、野村、電気係には砂山、谷沢、営繕係には下原、柴田、原田(ただし、出向員)のほか清掃に従事する雇員ないしアルバイトとして横内、荒田、谷口らの職員がおり、同課の所管業務としては、会社建物およびその設備の維持管理、運搬、清掃等広範囲の仕事を受け持っていた。同課の職員は、仕事の関係上、設備係の三名はボイラー技士(三宅はさらに建築士)、電気係の二名は電気主任技術者あるいは電気工事士、営繕係の下原は管工事技術者および建築士、柴田は建築士、原田は塗装工といったように一定の資格ないし特殊技能を有しておりその殆どが一定の資格、技術を有することを条件に採用されている者であって、申請人足立、同隆頼のように、もと事務職に携わっていた者で技術課に配転された者は一人もいなかった。

申請人足立は、技術課営繕係において塗装の下地処理のためのサンド・ペーパーがけ、空調設備等会社設備の塗装、社屋や社宅の塗装・修理、大工の手伝いとしての木工作業等雑役作業を担当してきた。同申請人は、配転当初申請人隆頼と二人で一〇日余りの間毎日のように通称「バラック倉庫」と呼ばれる作業小屋で塗装の下地処理のためのサンド・ペーパーがけをやらされたが、その作業は特に腕や指の関節に負担のかかる仕事で、従来事務職に従事してきた同申請人にとって肉体的負担の重いものであったばかりでなく、右作業小屋がスレート張りの物置風の建物であり、時節柄連日猛暑が続いたため、とうていその作業に耐えられないとして職場のチーフに善処方を申し入れようやく右作業小屋から脱出できた。技術課営繕係における仕事は、椅子に座ってする仕事は全くなく、長時間立ちっ放し、あるいはしゃがんだりの変則的な姿勢で、しかも殆ど全身を使ってする仕事であって、当時腰痛症等のため通院治療を続けていた同申請人にとって肉体的苦痛を伴うものであったため、同申請人は会社側に対し再三事務職を担当させて欲しいと要望したが、会社からは、会社の方針に反して事務職を担当させることはできないといって拒絶された。

申請人足立は、中川技術課長心得や下原チーフらから、同申請人が技術課に籍を置いているから同人に仕事を与えているので、仕事上成果があがることは別に期待していないなどと言われたことがあり、配転先では従前の職場と比較し、同申請人の一時金の考課査定において、健康状態が悪く仕事量が少ないとしてきわめて低い評価しか得られず、昇進・昇格の面においても、他の同期の非組合員が早々と六級職に昇格しているというのに、技術課員に必要な知識がなく仕事も満足にできないとして一度も推せんの取扱いを受けられない。のみならず、同申請人は、技術課においては汚れた作業服を着用し、殆どの従業員の目に触れる場所で仕事をしなければならないため、他の従業員からべっ視や同情の眼で見られ、屈辱感を味わっている。かくして、同申請人は、技術課の新しい職務に勤労意欲を持ち得ず、肉体的、精神的苦痛を受けている。

(二) 申請人隆頼について

(1) 申請人隆頼は、高校卒業後二年経過してから新聞紙上の事務職員募集広告に応募して昭和三六年三月被申請人会社に入社し(当時珠算二級、簿記二級の資格を有していた。)、約一か月間第六課(のちの品質管理課通関係)に所属したが、製造課が忙しくなったため応援の形で約一年間同課において薬品の包装作業に従事し、その後昭和三七年五月ころから同四五年一〇月ころまで主として製造課(のち生産課に組織変更)原価管理部門で原価計算業務等に携わり、昭和三九ないし四〇年ころからはその責任者として勤務してきた(なお同申請人は、昭三八年関西大学二部に入学し、同四二年そこを卒業した)。昭和四四年一〇月ころ会社においてコンピューターの導入計画が立てられたのを機に、申請人隆頼は、製造課業務のコンピューター化要員として選ばれ、申請人足立らと共にそのころから昭和四五年九月ころの間に社外の専門学校で講習を受けてプログラマーおよびシステム設計者の資格を取得したうえ、同四五年一〇月経理部電算機課(EDP課の前身)に配転され、以後及川浩係長の下でシステム設計者およびプログラマーとしてシステム設計やプログラミングの業務のほか、キーパンチャーの管理の仕事に従事し、昭和四六年には六級職主任に昇格した。ところが、前記のような経過を経て昭和四九年一〇月二一日EDP課が廃止されたため、申請人隆頼は、これに伴なって同年一二月二日付で総務部施設課業務係に配転された。その後、主として会社の研究所の増改築等を行うため西ドイツ・シェーリング社からライタース・レーベンが派遣されたことに伴い、昭和五〇年七月二五日会社に技術部が新設され、総務部施設課が技術部営繕課に移行したので、申請人隆頼も他の施設課課員と共に技術部営繕課に移った。昭和五二年一二月研究所の完成により技術部新設の目的が達成され、技術部長であったライタース・レーベンも本国へ帰国することとなったので、同五三年五月再び組織変更により技術部が解消され総務部技術課となった。総務部施設課が技術部営繕課に移行した際、同課の業務は保全係、電気係、設備係に明確に区分され分担されることになり、さらに技術部営繕課が総務部技術課に移行した際にも、右の三係がそのまま引き継がれた。しかし、申請人隆頼は、技術部営繕課、総務部技術課を通じて右の三係のいずれにも所属せず、もっぱら事務専任として当該所属課の事務的な仕事を担当してきており、その仕事の内容は、時期的に漸増してはいるが、最終的にみれば、修理依頼状の帳簿への記入、修理の担当者に対する指図、報告書に基づく月間の集計、材料購入の手配、工事発注書の作成、納品の仕入台帳への記入、過去の見積書の分類・整理、社宅の工事の記録、予算の参考資料の作成などであった。同申請人は、技術部の新設に伴って技術部営繕課に所属することとなった際、当時のライタース・レーベン部長から、同申請人には引続き事務を担当して貰う、仕事の内容、やり方に関しては問題はないと言われた。ところが、技術部営繕課から総務部技術課に移行し、同課が垣見総務部長の直接指揮下に置かれてからは、仕事の状況が従前と変わり、中川技術課長心得の方から申請人隆頼に日常的な伝票がポツリポツリしか回らなくなり、同申請人の仕事量は目に見えて減らされた。

(2) 申請人隆頼は、日シ労組結成の発起人の一人として活動し、昭和四五年一一月二七日同組合が結成されるや、副委員長に選出され、会社側から、組合無用ないし有害論を説く文書等が配布されたりする中で、教宣ビラ活動をするなどして組合の団結強化に力を注いだ。同申請人は、昭和四六年八月の定期大会で書記長になり、以後同四七年、四八年と引き続いて連続三期書記長をつとめてその任務を遂行し、労働条件、職場環境改善のため組合幹部の一人として常に先頭に立って活動してきた。ところが、前記のとおり昭和四九年六月守る会が結成され日シ労組から多数の脱退者が輩出するに及んで、同申請人は、新しい人に組合の指導を任せるため同年八月の定期大会を機に書記長をおりた。同申請人は、前記のとおり同年後半のEDP課廃止の際には職場の先頭に立って約二か月間にわたり廃止反対闘争を続けたが、同年一二月総務部施設課に配転された。さらに同申請人は、昭和五〇年八月の定期大会で総務部組合員の代表として職場委員に選出され、同時に職場委員会の議長に選出されて、一年間議長の立場で組合の重要決議に参加し、同五一年八月にも職場委員に再選された。また、申請人隆頼は、昭和四八年五月組合が初めて大阪地労委に不当労働行為の救済申立をして以来現在まで申請人足立、同宏と共に地労委、中労委、地方裁判所等における審問や裁判闘争の衝に当たる法廷闘争対策メンバーの一員として活動し、常に会社との争いの前面に立って組合活動を続けてきた。さらに申請人隆頼は、昭和五〇年三月から教宣部員として組合機関紙「きずな」の記事を担当し、組合の団結強化のため様々の角度から記事を書き続けている。

(3) 申請人隆頼は、昭和五三年六月一九日中川元晴技術課長心得に呼ばれ、同課長心得から、現場の技術課営繕係に仕事がたまっており人員不足のため若い人が欲しいので、同申請人が担当している事務の仕事は砂山係長(一級ボイラー技士、二級建築士、電気主任技術者等の資格をもつ技術者)に交代して貰うから、営繕の方に行って貰いたいと言われ、これに対し、同申請人は、自分は事務職として会社に入社し、これまで事務職員として仕事をしてきているのに、今回のような配転をされるのは納得できない、考えさせて欲しいと返事した。申請人隆頼は、翌二〇日中川課長心得に対し、今回の配転の決定者および同申請人の当時の職務内容に対する知悉の有無について質問したところ、同課長心得は、配転の決定者は垣見総務部長であり、同申請人の職務内容については入社してまだ間がないのでよく知らないと答えた。中川課長心得は、その後同月二三日ころと同月二八日ころの二回にわたって申請人隆頼に対し、配転先の業務内容に関して、製造部建物の三階床のコーキング、バレーコートの除草作業、大工の手伝いをし、大工の技術を覚えてくれと言い、今回の配転について同人の理解を得ようと努めたが、同申請人は、これに対し、関係資料を提示したり研究所の改築完了の事実を指摘して現場の仕事量が減っていることを主張し、右配転には応じられないとの態度を示した。しかし、中川課長心得からは配転に対する諾否の回答期限や配転の実施期日についての話は全くなかった。申請人隆頼が同月三〇日朝会社に出勤すると、同人の机と椅子は所定の位置になく、既に作業場の方に移したと言われたので、中川課長心得に対し、配転期日の話もなく配転に対して同意も与えていないのに先にそういうことをするのはどうしてかと非難したところ同課長心得から、それなら七月一日から配転先に行って貰うと言われたので、その日はやむなく一日中他人の座席に座っていた。同申請人は、七月三日(一日、二日は休日)朝中川課長心得に対し、机と椅子を元の位置に戻して欲しいと言ったところ、同課長心得から六月三〇日付の告示のファイルを見せられ、同日から配転先が営繕係になっているから、そこに行ってくれと言われたので、同申請人は、右指示をあくまでも拒否すれば会社から解雇されかねないと思い、代表取締役、垣見総務部長、中川技術課長宛に、本件配転命令は組合と組合員に対する不当な攻撃であり、同申請人の経験、知識、技能、技術および要求と余りにもかけ離れ、人選上の合理性も必然性もないうえ、本人の諒解を得ないまま配転期日を明示する以前に机、椅子を除去する不当な配転であるとして、「抗議並びに要求書」を提出して配転先の職場に移った。

(4) 申請人隆頼が本件配転命令を受けた当時の総務部技術課の職員構成、所管業務は、前記2(一)(4)のとおりである。同課の課員は、雇員ないしアルバイトの三名および申請人隆頼、同足立らを除くと全員がボイラー技士、電気主任技術者、電気工事士あるいは建築士等のいずれかの資格や専門の技能を具えている者ばかりであった。申請人隆頼も配転後最初は同足立と同様通称「バラック倉庫」と呼ばれる作業小屋に入れられ、誰もが嫌がる単純で反復的な力仕事であるサンド・ペーパーがけをやらされたが、折柄連日の猛暑の中での重労働に耐え切れず、営繕係のチーフに要求して配転三週間後ようやく他の仕事に変えて貰った。申請人隆頼は、その後は大工の手伝いや運搬の手伝い、塗装の準備あるいは塗装の作業などを担当するようになり、昭和五五年九月ころまでは原田と組んで二人で仕事をするケースが多かったが、最近になって申請人足立が加わり三人で仕事をするようになった。右のような作業は、従来下原チーフや三宅、砂山らがやっていたが、本件配転命令により申請人隆頼が営繕係に配転されてからは同申請人がこれを肩代りし、下原チーフが机に座りネクタイを締めて事務を執る状況が増えた。

申請人隆頼は、昭和五三年九月一日ころ中川課長心得から清掃係に行ってくれとの話を持ち掛けられたが、その理由については合理的な説明がなされず、同申請人が同月七日付で会社の取締役社長と垣見総務部長宛に、右配転は合理的根拠がなく本件仮処分申請中であり事態を一層複雑化し混乱を招くだけであるとして中川課長心得に再検討すべきことを指示されるよう要求する旨の要求書を提出したところ、その後同申請人の清掃係への異動の件は立ち消えになった。また、昭和五四年二月ころ技術課内会議において中川課長心得から、塗装専門技術者の出向社員原田を退職させる前提で、技術課に塗装係を新設し、そこに申請人隆頼と同足立を配転し、営繕係(電気を含む)三名、設備係三名、営業所関係一名の構成にするという組織変更案が発表されたが、申請人隆頼らから右組織変更案の不合理性を指摘されたため、上層部と相談するということで、三月一日実施予定が延び延びになり、結局同案は廃案になった。

申請人隆頼は、本件配転命令により、筋肉労働を伴う不慣れな雑役作業をさせられ、従来習得してきた経理関係等の事務の知識や技能を生かすことが全くできない。そのため、配転先では従前の勤務と比較して、一時金の考課査定において、本職の知識・技術を有している他の職員と直接比較されるためより低い評価しか得られず、また、昇進・昇格の面においても、担当の仕事に習熟しておらず必要な知識・技術を身につけていないが故に推せんを受ける可能性も一層乏しい。のみならず、同申請人は、汚れた作業服を着用し、寒暑にかかわらず本社の各所や社宅など戸外の他の従業員の目に触れ易い場所で作業をしなければならないため、他の従業員からべっ視や同情の眼で見られ、屈辱感を味わっている。かくして、同申請人は、技術課の新しい職務に勤労意欲を持ち得ず、肉体的、精神的苦痛を受けている。

(三) 申請人宏について

(1) 申請人宏は、高校卒業後昭和三八年五月二〇日被申請人会社に入社し、倉庫課に配属されて西ドイツ・シェーリング社から輸入された医薬品原料の搬出、搬入および解梱作業、製造課で小分け包装された完成商品の梱包および全国各営業所への発送作業など現場作業を担当したのち、昭和四〇年一月ころその能力を見込まれて同じ倉庫課内の通関係に配属され(通関係は、その後組織変更により昭和四五年一〇月製造部通関室、同四八年三月製造部通関課、同五一年五月製造部品質管理課通関係となる)、それ以来昭和五三年六月ころまで一三年半の長期間にわたって通関業務に従事してきた(同申請人は、その間昭和三九年四月大阪市立大学商学部二部に入学し、同四三年三月そこを卒業した)。その通関業務は、主として西ドイツ・シェーリング社から送られてくる医薬品原料の輸入手続全般を取り扱うもので、社内間にとどまらず対外的にも大蔵省税関、厚生省薬務局、通産省大阪通産局をはじめ外国為替銀行、船会社、乙仲業者等と幅広く関係し、しかも専門知識を必要とする特殊な業務であり、その所管業務の内容は、外国貨物の輸入にあたって税関当局に書類申請をし関税を支払う手続、医療品の輸入にあたって厚生省に報告し輸入の許可をとる手続、不良品の西ドイツへの積戻し(レシップメント)や滅却処分、業者に対する通関の依頼や打ち合わせなどであった。倉庫課通関係には五名の職員がおり、申請人宏は、昭和四五年ころから責任者である佐藤康夫係長を補佐する立場になったが、同係長が昭和四六年一〇月ころ日シ労組の組合三役や通関係の後身である通関室の他の職員(いずれも同組合員)に説得されて同組合に加入するや、翌四七年一月降格処分を受けて責任者から外され、新たに通関業務については知識のない東京センター所属の村川係長が通関室の責任者に就いて通関室の職員は六名になり、その後同年末ころ中島製造部次長、昭和五一年三、四月ころ和田製造部次長ら通関業務の知識を有しない者がそれぞれ通関室または通関課の責任者に就いた。昭和五一年春ころ近藤武製造部長が通関係員の佐藤を直接呼び、同人に対し申請人宏が就業時間内に組合文書を書いているらしいとの口吻をもらしたことがあったが、その後間もない同年五月ころ製造部通関課は製造部品質管理課通関係に組織変更され、それに伴って職場も従前の一階の独立した部屋から、三階にある近藤製造部長、和田製造部次長らと同室の部屋に移動させられた。しかし、この部屋の移動は、通関課の職員の手によることなく一夜のうちに行われるという異状なもので、申請人宏の机やロッカーは同申請人の知らない間に運ばれており、同申請人の席はその背後から部長や次長が監視し易いような位置に配置されていた。右のような組織変更、部屋の移動は、通関課課員全員が日シ労組の組合員であったところから、その監視を強めることを主たる目的として行われたものと推認される。その後昭和五二年一〇月和田製造部次長兼品質管理課長が退職したため、新たに社内公募に応募した蛭谷衛が品質管理課長に任命された。月一回定例的に開催される品質管理課通関係の会議は、蛭谷課長就任後五回開かれたが、席上、経費削減に関する問題が話題に出たことは一度もなかった。

(2) 申請人宏は、前記1(一)の経過から卒先(ママ)して労働組合づくりに尽力し、昭和四五年一一月二七日日シ労組が結成されるや、その執行委員に選出された。さらに昭和四六年八月の定期大会でも執行委員に再選され、青年婦人部長として青年婦人部の組織づくり、学習サークル活動等を行い、闘争時には青年行動隊を組織して歌声集会、構内・構外デモ、門前ピケなどの先頭に立ち、組合の団結強化のために取り組み、同四七、四八年には新設された書記局員に二期連続して選出され、書記長を補佐した。昭和四九年六月守る会が結成され日シ労組から多数の脱退者が出たが、同申請人は、同年八月新指導体制の下で書記長に選出され、以来同五三年八月まで連続四期書記長をつとめ、同年八月の定期大会で副委員長に選出された。日シ労組は、前記1(二)のとおり昭和四八年五月初めて大阪地労委に不当労働行為救済の申立てをしたが、申請人宏は、そのころ申請人足立、同隆頼と共にいわゆる法廷闘争対策メンバーの一員に選ばれ、以後現在まで一貫して会社の前記1認定のような相次ぐ不当労働行為ないし反組合的行為に対し、地労委、中労委、裁判所における法廷闘争対策の担当者として活動してきた。

(3) 昭和五二年一〇月新たに品質管理課長に就任した蛭谷課長は、会社の指示に基づき経費節減を図る観点から通関業務の内容、中でも各種下請料金について再検討を行った。その結果、会社が十年来取引を継続してきた唯一の下請業者である住和港運株式会社(以下「住和港運」という)に対する倉庫料、荷扱料(入庫料、出庫料、併替料、仕訳料等)が、その計算の基礎数字として使用する前年度の平均容積値(多種類の梱包カートンの平均値を求めたもの)を何ら補正しないまま使用していたため、著しく過払となり、会社に多大の経済的損失を与えていたことが判明した。

会社では、垣見総務部長らが昭和五三年五月八日通関業務に長期間携わってきた佐藤康男から、倉庫料等の過払問題について事情を聴取し、同人に対し始末書を提出するよう求めたが、同人は、責任を追及されるいわれはないとして、同月二三日垣見総務部長宛に、始末書に代えて、「自分は通関業務全般に関して当時の酒井製造部長から権限の委譲を受け業務を遂行してきたこと、通関業務に関する諸経費を節減するため検討を加えてその都度具体化し、営業倉庫にかかる費用については従前の基礎数字(MT指数)をダウンするため、昭和五一年一〇月までに入港した貨物については従前の指数を適用し、同年一一月以降入港する貨物については向後一年間新指数〇・一二を適用し、同五二年一一月以降は過去一年間の入港実績に基づく指数を適用することを決定し、その旨当時の責任者和田製造部次長に報告し諒解を得たこと、しかして、同五一年一一月請求分から右指数が適用され、同五二年一一月請求分からは過去一年間の入港実績に基づく指数〇・〇七五が適用されたこと、この新指数が確定したころ、蛭谷品質管理課長に対して右取決めの内容を説明し、垣見総務部長にも指数説明の部分で説明していること」を内容とする報告書を提出した。

垣見総務部長、近藤製造部長、蛭谷品質管理課長は、昭和五三年五月二六日穏密裡に住和港運に出かけ、MT指数の取決めについて経緯を問い質し、経理帳簿の閲覧を要求し、佐藤および申請人宏と住和港運との癒着の有無等を調査した。その結果、佐藤については、会社に報告せず、またその許可も受けずに住和港運の取引担当者からゴルフや飲食の接待を受けていることが明らかになり業者との深い慣れ合いをうかがわせる疑いが出てきた。佐藤は、自律神経失調症等を病名とする診断書を三回にわたって会社に提出したうえ、同年五月二九日ころから同年七月二〇日ころまで休暇をとり続け、その間、近藤部長が六月一〇日ころ喫茶店でもと部下であった佐藤の妻に対し夫佐藤の任意退職を勧奨したり、蛭谷課長が同月二五日ころ佐藤宅に同人の給料を届けた際同人に対して会社へ進退伺いを提出するよう促したりした結果、佐藤はついに七月二〇日ころ会社を退職するに至った。会社は、右倉庫料等の過払問題について住和港運と交渉した結果、同年六月二八日同社との間で、同社が会社に対し同年一月一日から六月一五日までの間の請求金額を修正するため、金一〇〇四万七五五六円を支払うことを確認する旨の覚書を取り交した。

ところで、申請人宏は、前記倉庫料等の計算に基礎数字として使用する具体的指数については、昭和五三年五月二二日か二三日ころ佐藤から、前記報告書の提出について相談を持ち掛けられた際に事情説明を受けるまでは知悉していなかった。同申請人は、佐藤から指示される資料を作成して会社に提出していたものの、右指数の資料を作るという認識をもってその作成に当たったことはなく、また、保税倉庫、保税上屋の費用が総額約一億円位かかるという程度の認識は有していたものの、住和港運に支払われる金額がどの程度にのぼるかということは判らなかった。さらに同申請人は、住和港運との指数取決めに関する契約交渉の場に出かけたことは一切なく、契約交渉があるということも全然知らなかった。ただ、住和港運の取引担当者との間で昼休みにそれぞれのポケット・マネーで昼食の接待をしたりしたことはあったが、同申請人と業者との癒着を疑われる関係は別段存在しなかった。同申請人は、同年六月七日蛭谷課長から、同申請人が預り保管中の通関係専用のロッカーやファイル・ボックスの鍵を交付するよう求められた際、初めてMT指数の件について質問を受けたので、同申請人の知っている範囲内でこれに答え、さらに同月一九日通関係員の石井に引き続いて垣見総務部長から他の件と合わせて右指数の問題について事情を聴取されたので、佐藤から聞いた話の内容や自己の指数問題に対する関与の有無、程度等について陳述した。

なお、通関業務の管理責任者であった垣見総務部長、近藤製造部長らは、住和港運に対する倉庫料等が前記MT指数を基礎として計算されることを予め知りながら、その具体的指数に基づいて計算された経理関係の書類に決裁の判を押しており同年六月二九日付で会社社長宛に、通関業務の遂行に当たり管理上の手落ち、管理監督の不行届があったことをそれぞれ詫びる趣旨の始末書を提出している。会社は、同年六月三〇日社長名で、「通関係において取引先との支払に関する各種条件を上司の事前の許可を受けずに決定する等不届な行為があり、結果会社が多額の不要な支払をしていたことが明らかになった。今後かかることのないよう関係者に厳重に注意するとともに、通関係の業務分担の変更を行い、厳正な業務の遂行を命じている(以下略)」旨の告示を行った。

(4) 申請人宏は、昭和五三年六月二八日会議室に呼ばれ、近藤製造部長、蛭谷品質管理課長から、突然同年七月一日付で営業本部図書室(その後営業部図書室と組織名称変更)に勤務するよう命ぜられた。しかし、同申請人は、右配転命令に対しては、〈1〉配転理由が明確にされない、〈2〉配転に合理的理由がない、〈3〉配転先の業務内容が明らかにされない、〈4〉配転期日が急であるなどとして、右〈2〉〈3〉の点が明確になった時点で改めて考えさせて頂くと返答して態度を保留し、再度その点について説明を求めていたが、その後何らの説明もなかった。ところが、近藤部長は、同月三〇日午後開かれた製造部会において、他の報告事項と合わせ、七月一日付人事通知として申請人宏に対する本件配転命令、佐藤康男に対する製造部長付の配転命令を一方的に発表し、しかも右両名については、あたかも同人らが不正を働き業者から金品の授受を受けていたかのように言い、その責任追及の人事であるかのごとく説明を加えた。そして、同部長は、右部会終了後、右配転理由の説明に対する申請人宏からの抗議に対し、これは七月定期人事であり、君が言うような説明はしていないと否定し、さらに配転先の仕事さえ明らかにしていないとの同申請人からの抗議に対しては、そんな事は配転先で聞くべきことで、私は知らないと発言した。七月三日(一日、二日は休日)申請人宏が出社すると、同人の机は既に通関係の部屋から無くなっていたので、同申請人は、再度近藤部長、蛭谷課長に対し、本件配転命令は不当であり応じられないと抗議、主張したところ、同部長らから、個人の意思は関係ない、この命令は絶対的なものであり、断ることはできないものであるとの返答があったので、同申請人としては右配転には異議をとどめつつやむを得ず配転先に行くものであると明言し、以後営業本部図書室に勤務するに至った。

なお、通関係における佐藤と申請人宏の後任には、林義治(係長待遇)、日永貞治の両名が丸一海運から受入れ出向社員として会社に入社しており、乙仲業者も京浜倉庫が会社の貨物の大半を保管するように変わった。

(5) 申請人宏は、本件配転命令により、営業本部図書室におさめてある医学関係の単行本および学術関係の雑誌(いわゆる二次資料)のうち、単行本について管理・整理することを命ぜられた。同申請人は、図書室で主として横一五糎、縦八糎の図書カード用紙に所要事項を記入したり、タイプで打ち込んで、検索用の図書カードを作成する仕事を担当した。同申請人が取り扱った約三〇〇〇冊の単行本の中には、洋書はせいぜい一、二割程度しか含まれておらず、図書カードの作成も手書で十分に賄えるものであった。同申請人の英文タイプ能力は、官庁等に提出する所定の書式を自己流に打てるという程度で、原稿を見ながら迅速にタイプを打つことができるわけではなかった。同申請人の図書室での仕事は、同人がこれまで身につけてきた専門知識や技量を何ら必要とせず、同人でなければ処理できないという性質の業務では全くなかった。

申請人宏は、通関業務遂行能力、さらに通関業務管理能力については、会社内で第一人者であるとの自負を抱いているが、図書室勤務では右能力を全く発揮できず、一時金の考課査定や昇進・昇格の面において従前の職場よりも不利益な状況に置かれたことは明らかであり、また、自己の有する能力を活用できない単純作業を強いられたことにより、屈辱感を味わい、図書室業務に勤労意欲を持ち得ず、精神的苦痛を受けた。

(6) 申請人宏は、昭和五五年六月二四日図書室の会議の席上で西畠窿図書室部長から、図書室を廃止する旨の説明を受けた。次いで翌二五日総務部応接室において、総務部の山本孝之購買課長代理から、七月一日付で総務部購買課倉庫係に勤務して貰う、その仕事の内容は常備品(社内で使う使用頻度の高い事務用品)を中心とした在庫管理および受払であると言われたが、配転の理由については、前日の図書室部長の説明を簡単に援用した程度で特に具体的な説明はなかった。当時倉庫係には山田鼎と西村恭子の二名がおり、山田は組合の初代の執行委員長で委員長を四期勤めた人、西村は山田の後を継いで委員長になった西村毅の妻で、婦人部の部長や執行委員をして組合結成当初から活動してきた組合員であり、当時産前産後の休暇中であった。申請人宏は、同年七月一日本件再配転命令の辞令(ただし、辞令面では単に総務部購買課勤務を命ずるとなっている)を受け取ったが、そのまま図書室に勤務し、同月四日グラウマン取締役社長、垣見総務部長、山本購買課長代理宛に、本件再配転命令は本件配転命令の効力停止の仮処分事件の審理をより複雑にし、かつ引き延ばそうとするものであり、何よりも組合つぶしの攻撃を一段とエスカレートしようとするだけのものであると抗議し、本件再配転命令の取消と通関係への原職復帰を申し入れたあと、本件再配転命令について〈1〉配転の理由、〈2〉仕事の内容、仕事量、〈3〉西村の産休が明けたときの倉庫係の体制いかんの三項目にわたる質問を記載した文書を提出したところ、同月九日山本課長代理から、〈1〉については会社の決定である、〈2〉については新しい裁断機を入れてその仕事をやって貰う、〈3〉についてはそのときの話、という回答がなされ、同申請人が通関係に戻してくれと主張したところ、同課長代理は私が答を出すことはできないと答えた。同申請人は、本件再配転命令の効力については異議をとどめつつ、同命令違反による解雇その他の不利益処分の危険を回避するため、同日やむなく机を移動して購買課倉庫係に勤務したが、裁断機は入っておらずその点は立ち消えになった。

倉庫係の部屋は、組合員の間では「隔離部屋」とか「見せ物小屋」とか呼ばれ、雨漏り修理を施す必要のある非常に古い建物で、昭和五五年一二月には電話機も取り外されてしまった。申請人宏は、そのような職場環境の下で能力に見合ったまともな仕事を与えられず、人の嫌がる仕事をさせられ、入社以来蓄積してきた事務職員としての経験や能力を全く生かすことができず、そのため一時金の考課査定や昇進・昇格の面において本件配転命令前の職場よりも不利益な状況に置かれており、精神的苦痛を受けている。

3  本件各配転命令の不利益性

前記2の認定事実によると、申請人足立は、会社に入社後数年間は経理関係の事務職員として勤務していたものの、昭和四九年一〇月不当なEDP課の廃止に伴い、製造部商品課(のち保管課)原料製品係に配転され、そこで筋肉労働を伴う現場作業に携わったため、業務に起因して腰痛症等を発病したので、これを理由に会社に配転を要請した結果、昭和五一年七月保管課物品倉庫係に配転され、そこで約一年八か月余り机上で処理する事務的な軽作業に従事していたものであるが、本件配転命令により、総務部技術課営繕係に配転され、そこで従前の事務職としての技能、職歴に相応しない筋肉労働を伴う雑役作業に従事させられることになり、しかも、配転先では従前の勤務と比べて、一時金の考課査定においてより低い評価しか得られず、昇進・昇格の面においても推せんを受けられる見込は一層うすくなっており、肉体的、精神的苦痛を受けていること、次に、申請人隆頼は、会社に入社後一二年余りの間経理関係の事務職員として勤務していたものの、昭和四九年一〇月不当なEDP課の廃止に伴い、総務部施設課業務係(のち総務部施設課は技術部営繕課に、さらに総務部技術課に移行)に配転され、そこで三年八か月余りの間一貫して書類の作成等の事務的な業務を担当していたものであるが、本件配転命令により、申請人足立と同じ総務部技術課営繕係に配転され、そこで筋肉労働を伴う雑役作業に従事させられることになり、従来経験し習得してきた事務職としての知識や技能を全く生かすことができず、しかも、配転先では従前の勤務と比較して、一時金の考課査定においてはより低い評価しか得られず、昇進・昇格の面においても推せんを受けられる可能性は一層乏しくなっており、肉体的、精神的苦痛を受けていること、さらに、申請人宏は、会社に入社後一三年半の長期間にわたって通関業務担当の事務職員として勤務してきたものであるところ、昭和五三年五月ころ住和港運に対する倉庫料等の過払問題が持ち上り、右問題につき同申請人が会社から責任を問われるのは後記4(三)で説示のとおり酷であると考えられるにもかかわらず、いわばその責任を追及される形で、また会社の右調査に対する不協力を理由に、本件配転命令を受けるに至り、営業本部図書室に配転され、そこで従前の技能、職歴に相応しない図書カード作成等の業務を担当させられたため、従来経験し習熟してきた通関業務遂行能力を全く発揮できず、一時金の考課査定や昇進・昇格の面において従前の職場よりも不利益な状況に置かれ、精神的苦痛を受けたこと、また、同申請人は、本件再配転命令により、総務部購買課倉庫係に配転され、劣悪な職場環境の下で従前の技能、職歴に相応しない在庫管理等の仕事をさせられ、一時金の考課査定や昇進・昇格の面において本件配転命令前の職場よりも不利益な状況に置かれており、精神的苦痛を受けていることが明らかである。

右事実に徴すれば、申請人らに対する本件各配転命令は、いずれも労働組合法七条一号にいう不利益な取扱に該当するものといわざるを得ない。

4  業務上の必要性についての検討

本件疎明資料によれば、会社就業規則三七条には、「従業員は会社が業務上必要がある場合に転勤を命じ、あるいは職場または職種の変更を命じたときはこれに従わなければならない。ただし、事前に本人の諒解を得るよう努力したうえで発令する」旨規定されていることが一応認められる。被申請人は、申請人らに対する本件各配転命令について、次のとおり右命令を発令した事情を詳述し、いずれの場合も業務上の必要性に基づく相当なものであると主張するので、以下、この点について検討する。

(一) 申請人足立について

被申請人は、申請人足立に対する本件配転命令の理由として、「会社では社内の業務能率向上のため昭和五二年一一月に経理事務手続改善のためのプロジェクト・チームが設置され、無駄な業務、重複した業務の発見と解消に努めていた。その一環として製造部保管課物品倉庫係の仕事内容を見直した結果、同係の仕事内容のうち、〈1〉営業部の学術宣伝用印刷物の受入れ・保管・発送および〈2〉研究開発本部の臨床文献資料や印刷物の受入れ・保管・発送については、営業部や研究開発本部がそれぞれ扱い、業者在庫、業者発送に改められ、〈3〉全社の事務用品、消耗品の受入れ・保管・発送については、営業所用のものは各現地営業所扱いとし、大阪本社の分のみが残ることとなり、〈4〉全社の事務服等の貸与品の受入れ・保管・発送について、営業所プロパー(営業の外勤社員)用の分は必要の都度購入して在庫をなくし、内勤者用事務服(男女共)は貸与品から支給品として計画支給とし、ごく一時的に管理する仕事が残ることとなったが、右〈3〉〈4〉の残った部分と〈5〉在庫台帳の作成、事務消耗品の発注・検収、伝票の作成等の業務については、総務部購買課倉庫係で十分行うことができるので、同五三年七月一日付で製造部保管課物品倉庫係を廃止し、同係に残存する業務を総務部購買課倉庫係に移行する組織変更が行われることとなったため、申請人足立を含む同係の五名の職員全員が配転の対象とされるに至ったものである。申請人足立を総務部技術課営繕係に配転したのは、同申請人が物品倉庫係当時の軽作業については約二年間何ら苦情を申し立てていなかったことと、同申請人の腰痛については椅子に座って一定の姿勢を長時間持続するいわゆる事務職の仕事よりも、姿勢を適当に変え得る機会のより多い軽作業の方が適当であると判断し、同程度の軽作業ができることを考慮した結果である」と主張する。

まず、製造部保管課物品倉庫係を廃止した理由ないし必要性についてであるが、会社の総務部長垣見満は、本件疎明資料の中で、右の点について被申請人の主張にほぼ副う供述をし、「物品倉庫係は、各種文献類を多量に購入し、保管課で発送業務を取り扱っている医薬品製品と一緒に右文献類を各地の営業所に発送するのが主要な業務であったところ、今度製品を営業所でなくストック・センターで在庫することになり保管課から営業所に製品を発送することが必要でなくなったので、各種文献類も発行元ないし印刷元から直接営業所に送って貰うことに切り替えた。そのため、事務用品の配給や払出し、購買で購入した物品の受入れ・保管が物品倉庫係の中心的な業務となったので同係を廃止し、残存する業務を総務部購買課倉庫係に移行することとなったものである」と述べている。そして、本件疎明資料によれば、会社は、従来、企業経営者としての立場から、事務の合理化により組織効率をあげるためとして、他社に比べると割合頻繁に、しかも随時不定期に部、課、係等職務分担に関する職制を変更し、これに伴って不可避的に起る職員の配転を行ってきていることが一応認められる。

しかしながら、被申請人の主張にかかる経理事務手続改善のためのプロジェクト・チームについては、その設置に至った背景・目的、チームの組織・陣容、活動内容が明らかでないばかりでなく、本件各配転命令に関係する部署を除いて、どの部署のいかなる業務をどのように改善すべきであるとの結論に達したのかについても詳らかでない。そのうえ、会社には、前記1(三)で詳細に認定したように、日シ労組の拠点をつぶして同組合の壊滅ないし弱体化を図るため、昭和四九年一〇月折角新設したEDP課を廃止し、これに伴って多数の同課所属組合員の配転を強行している事実があり、また、前記2(三)(1)で認定したように、製造部通関課所属の日シ労組組合員に対する監視を強めることを主たる目的として、昭和五一年五月ころ同課を品質管理課通関係に組織変更し、その部屋を異状な態様で製造部長らと同室の部屋に移動している前例がある。さらに、前記2(一)(1)認定のとおり、製造部保管課物品倉庫係の職員は、申請人足立をはじめ、いずれも会社が嫌悪している日シ労組の組合員で占められていた。その他、前記1認定のような背景事実、前記2認定のような本件各配転命令に至る経緯等の事実に照らして考えると、製造部保管課物品倉庫係の廃止が純粋に組織効率をあげるための合理的な組織変更であったのかどうかについては、疑問をさしはさまないわけにはいかない。

次に、申請人足立を総務部技術営繕係に配転した理由についてであるが、前記2(一)(1)認定のとおり、製造部保管課物品倉庫係に在勤中の申請人足立の仕事は、伝票の発行その他机上で処理する事務的な軽作業であって、従前の商品課(のち保管課)原料製品係での筋肉労働を伴う現場作業と比べると負担の軽いものであり、しかも、同申請人としては、業務に起因して発病した腰痛症等による健康障害を理由に、再三会社側に要請してようやく原料製品係物品倉庫係に配転して貰った経緯があったところから、同係の仕事については特に苦情を申し立てることがなかったにすぎず、当時電算機業務への就労を希望していたことからも明らかなように、決して同係の作業に満足していたわけのものではない。また、本件配転後の技術課営繕係の仕事は、会社建物やその設備等の塗装、修理など、長時間立ち放し、あるいはしゃがんだりの変則的な姿勢で、しかも殆ど全身を使ってする肉体的負担の重い雑役作業であり、保管課物品倉庫係の仕事に比べて、量的にも質的にも決して同程度の軽作業であるとはいえないだけでなく、同申請人の健康に及ぼす影響の面からみて物品倉庫係の仕事より勝っているとは断じ難いものである。したがって、申請人足立を営繕係に配転した理由に関する被申請人の主張は、当たらない。

なお、総務部長垣見満は、本件疎明資料の中で、技術課全体の業務量の査定により、営繕係の仕事がたまっており、同係を増員する必要があった旨供述している。しかし、右の点を裏付ける客観的な資料は証拠として何ら提出されていないこと、本件疎明資料によれば、技術課に対する各種修繕依頼件数が昭和五一年度から同五三年度上半期まで各年度毎に減少してきていることが一応認められること、前記2(二)(4)認定のとおり、昭和五四年二月ころ技術課に塗装係を新設し、申請人足立、同隆頼を営繕係から塗装係に移して営業係の人数を減員させる組織変更案が作られていること、などの事実に徴すると、垣見満の右供述記載はそのまま措信し難い。

以上のとおり、申請人足立に対する本件配転命令について業務上の必要性ないし合理的理由があったとする被申請人の主張には、客観的にみて少なからず疑問がある。

(二) 申請人隆頼について

被申請人は、申請人隆頼に対する本件配転命令の理由として、「技術部は主として会社の研究所の増改築等を行うために設置されたが、昭和五二年一二月に研究所も完成し、同部の使命を達したので、技術部は解消され技術部営繕課が総務部技術課となり、同課に設備係、電気係、営繕係が設けられるのと同時に全社的な経理事務手続の見直しが実施された。その結果、旧営繕課事務の仕事のうち、〈1〉購買関係の事務は購買課、〈2〉社宅関係の事務は庶務課、〈3〉各部課の月間修繕経費算出に関する事務は経理課でそれぞれ行うこととなり、また、必要でなくなったものも出てきたため、その事務が激減し、総務部技術課に事務の専任者を置く必要がなくなったものである。そのため、申請人隆頼の配転先について検討したところ、同申請人が従前従事していた同種の事務関係の業務はどの部門にも欠員がない状態であるのに対し、技術課営繕係には要員補充の必要があったので、(1)技術課という同一課内のことであり、同申請人にある程度新しい仕事に対する理解があること、(2)同申請人は入社後現業の包装機械を運転し現業の経験もあること、(3)営繕係の業務には多種多様の仕事があるが、いずれも特殊技能とか免許とかを必要としない軽作業であること等の事情を総合的に勘案して、同申請人を総務部技術課営繕係に配置換えするのが最も適切なことと判断したものである」と主張する。

まず、総務部技術課に事務担当の専任者を置く必要がなくなったとする理由についてであるが、前記2(二)(1)認定のとおり、技術部設置の所期の目的が達成されたため、技術部を総務部技術課に格下げする組織変更が行われたこと自体は、それなりに理由があったものと思われる。しかしながら、右の組織変更によって従来申請人隆頼が担当していた事務の量が減少したのかどうか、減少した場合はその程度いかんについては必ずしも明確でなく、垣見満総務部長は、この点について、本件疎明資料の中で、「技術部設置の目的であった研究開発本部の建物が竣工し、技術部長であったライタース・レーベンも帰国したため、技術部が縮小して総務部技術課になると同時に、業務内容の業務割当の見直しをやり、従来事務を担当していた申請人隆頼の事務が暇になった」とか、「同申請人の事務量はそもそも非常に少ない状態にあった」とか、あるいは「昭和五三年四月から六月にかけて新しい制度が社内に導入され、新しい経理手続によって業務の仕方が変り、各種申請書は担当者が詳細に書かなければならないようになったので、業務分担が変わったという面と、研究所の改装をやっていた人が一般の技術課営繕係の仕事に戻ってこれるということとの組み合わせの関係で、事務的な業務内容が減った」などと供述しているものの、同人の右供述記載は、その趣旨があいまいで一貫性がなく、理解し難いところがある。また、被申請人の主張にかかる経理事務手続の見直しが実施されたとする点については、前記(一)で述べたように詳らかでない。

さらに、申請人隆頼を技術課営繕係に配転した理由についてであるが、被申請人は、技術課営繕係には要員補充の必要があったと主張し、本件疎明資料中の総務部長垣見満の供述記載は右主張に副うが、同供述記載は前記(一)で述べた理由によりにわかに措信し難い。また、被申請人は、申請人隆頼にある程度新しい仕事に対する理解があり、営繕係の業務はいずれも特殊技能とか免許を必要としない軽作業であると主張するが、前記2(二)(1)認定のとおり、同申請人は総務部技術課においてもっぱら事務専任として帳簿や台帳への記入、関係書類の作成・分類・整理等の事務的な仕事を担当していたものであり、一方、前記2(一)(4)認定のとおり、技術課営繕係の本来の職務はボイラー技士、電気主任技術者、建築士、塗装工など一定の資格ないし特殊技能を必要とするものであるのに対し、同申請人の担当する新しい仕事はこれを補助する雑役作業であり、一定の資格や特殊技能まで必要としないとはいえ、従前の事務とはその性質、内容の全く異る業務であるから、同申請人に右仕事に対する理解があるとはいちがいにいえない。さらに、被申請人は、申請人隆頼には入社後現業の経験もあると主張するが、前記2(二)(1)認定のとおり、同申請人は入社直後の昭和三六年五月ころから約一年間応援の形で製造課において薬品の包装作業に従事したことはあるものの、当該作業は営繕係の業務とは全く異種の作業であり、その従事した時期や期間の点からみても、とうてい同申請人に現業の経験があるといい得るものではない。

以上のとおり、申請人隆頼に対する本件配転命令について業務上の必要性ないし合理的理由があるとする被申請人の主張には、客観的にみてこれまた疑問を抱かざるを得ない。

(三) 申請人宏について

(1) 被申請人は、申請人宏に対する本件配転命令の理由として、「会社の営業成績が昭和五一年、五二年と続けて赤字を出していたので、会社としては昭和五三年にこの赤字を解消し、健全経営に向かう一環として、会社の全部門にわたって経費の大幅削減と節約を図る趣旨で徹底した経費の見直しを行っていた。そうした事情のもとで新任の蛭谷品質管理課長が通関業務の内容、特に唯一の下請会社である住和港運の各種下請料金について再検討を行った結果、同社に対する倉庫料、荷扱料が、その計算の基礎数字として使用する前年度の平均容積値を何ら補正しないまま使用して計算していたため著しく過払となり、会社に多大の経済的損失を与えていたことが判明した(会社としては、とりあえず住和港運と交渉して昭和五三年一月から六月までの分を再計算して金一〇〇四万七五五六円を返金させたが、昭和五二年以前の分に関しても約四〇〇〇万円の過払があると推定されている)。これは過払となる事実を十分知りながら、その対応策を講じようともせず、また上司に報告もせず、漫然と長期間にわたって通関業務に携わってきた課長代行の佐藤康男係長およびその補佐役として平均容積値の基礎数字を作成していた申請人宏の責任が重大である。さらに必要以上の経費を支払っているとの疑いに基づく会社の調査にあたっても、同申請人がその事情と背景について自発的に報告し説明しないだけではなく、質問に対して答えもせず、その間の事情は一切知らないと主張して会社の調査に協力しないことは懲罰処分にも相当するものである。したがって、佐藤および申請人宏は、たとえ右過払の事実につき積極的な悪意はなかったとしても、通関業務に携わる者としての適格性を欠如しているといえるのであり、また通関業務の中に同種の誤りが存在することも予想されたので、通関業務を十分に監督するため、右両名の担当者を同業務から外すことが当面の措置として必要となったものである。申請人宏の配転先については、昭和五三年初め営業用資料や研究用図書の統一化と共通利用のため図書室が新設されていたが、図書の索引カードの作成や図書の整理等多くの仕事が必要となり、また、相当部分が洋書である関係で英文タイプのできるスタッフの配属が希望されていたところから、同申請人の英文タイプの能力を生かして貰うために、同申請人を図書室勤務としたものである」と主張する。

しかしながら、被申請人の主張にかかる会社の営業成績が昭和五一年、五二年と続けて赤字を出していたという点については、会社の決算報告書等これを客観的に認めるに足りる証拠が何ら提出されていないのみならず、本件疎明資料によれば、組合の昭和五二年一一月一五日付のビラは、会社は円高による為替差益により昭和五二年一年間に組合試算で二億五〇〇〇万円以上の差益がころがり込む計算となる旨の記事を掲載していることが一応認められ、垣見総務部長も本件疎明資料の中で会社は同年中に為替差益により一億円前後の利益を得たことを認める旨の供述をしており、これらに徴すると、被申請人の右主張は容易に認め難いものである。また、会社としては、昭和五三年にこの赤字を解消し、健全経営に向かう一環として、会社の全部門にわたって経費の大幅削減と節約を図る趣旨で経費の見直しを行っていたというが、この点についても前記(一)同様詳らかでない。

ところで、申請人宏が通関業務に携わる者としての適格性を欠如しており、通関業務を監督するため同人を右業務から外す必要があったか否かについてであるが、住和港運に対する倉庫料等の過払の事実は、会社の経営にとって軽視できないきわめて重大な問題であったとしても、前記2(三)(3)で明らかなように、その責任は、もっぱら通関業務の責任者として具体的指数の決定に直接関与した佐藤やその決裁をした通関業務の管理監督責任者である課長、部長らに帰せしめられるべき筋合のものである。申請人宏は、佐藤の補佐役として長期間通関業務に携わってきたとはいえ、具体的指数の決定に直接関与したことも、これに関して知悉していたこともなく、佐藤から指示されるとおりに諸資料を作成し、その任務を遂行していたものであって、ことさら数量計算等に手心を加えるなど故意または過失により会社に損失を与えたというわけではないから、右過払の事実につき同申請人の責任を追及するのは酷であり相当とは認めがたい。また、被申請人は、申請人宏が会社の調査に対し進んで協力しなかったことを責めているが、同申請人は具体的指数の件については直接関与しておらず、かつ知悉していなかったのであるから、会社の調査への不協力を責めるのは過酷である。同申請人は、長期間専門知識を要する特殊な通関業務に携わり、その職務を誠実に遂行してきた実績にかんがみると、倉庫料等の過払の一件があったからといって、通関係職員として不適格であると決めつけることは行き過ぎであり、同申請人をいわば責任追及の形で通関業務から外す必要があったとするのは問題であると考える。

次に、申請人宏を営業本部図書室に配転した理由についてであるが、前記2(三)(5)認定のとおり、図書室にあった洋書の在庫割合が一、二割程度にすぎなかったことや図書カードの作成は手書でも十分賄えたことからいって、図書室に英文タイプのできるスタッフの配属が必要であったとは必ずしも考えられないし、同申請人の英文タイプ能力はごく限られたものであって、同人でなければ十分に遂行できないというような業務では全くなかったことが認められる。

以上のとおり、申請人宏に対する本件配転命令について業務上の必要性ないし合理的理由があったとする被申請人の主張には、客観的にみて容易に首肯しかねるものがある。

(2) 被申請人は、申請人宏に対する本件再配転命令の理由として、「申請人宏が本件配転命令により配転された図書室は、同申請人を含め組合員三名、非組合員二名、管理職二名の職場であったが、その後図書室の果たせる仕事範囲が会社の発展する分野に対して十分に機能できないところから他の方法によることとし、図書室を廃止することが決定された。この組織変更によって従来どおり情報検索サービスを担当するのは人数的に限られ、能力・適性に応じて配置した結果として余剰になる人員は、組合員であるか否かを問わず再配置することが必要となるのであって、同申請人は右のような業務上の必要性に基づいて再配転されるに至ったものである」と主張する。

本件疎明資料によれば、次の事実が一応認められる。

会社では、従来図書室を設置し、これに営業関係の情報センターとしての機能を担当させてきたが、最近の出版刊行物の著しい増加と情報産業の急激な発展にかんがみ、図書室を従来の方式どおりに維持存続させていくことは必ずしも適切ではないと判断されたこと、合わせて新薬事法の施行により、医薬品の有効性、安全性についての情報の収集と提供がより一層重要となったため、営業部製品育成室を強化して右に対応する業務を担当させ、業務の一元化と効率化を図る必要が生じたことから、昭和五五年七月一日付で図書室業務を移管し図書室を廃止することを決定するとともに、主要メーカーの殆どが採用しているJAPIC(日本医薬情報センター)のコンピューター端末機を製品育成室に設置してオンラインにより文献検索を行うこととした。右図書室の廃止に伴って従来図書室業務を担当していた職員の配転が余儀なくされた。そのため、海外からの連絡や会社の各種医薬品の使用基準等を定める書類の点検等に当たっていた西畠窿部長は営業部長付に、五影靖彦主任は学術関係の知識があり英語の読解力があることを買われて営業部営業統括室流通チームに、文献検索、JAPICとの連絡等に当たっていた小林秀馬主任およびこれに関する書類の整備・発送に当たっていた高井順子は引続き当該業務を担当させるのが適当と判断されて営業部製品育成室学術課に、図書の購買や図書に関する情報関係の元締め的な仕事をしていた中川京一は応援かつ見習として総務部サービスチームにそれぞれ配転され、申請人宏は、同人の特技を生かせるような職場からの要望もなかったうえ、通関係に復帰させるのは倉庫料等の過払問題があった以上相当でないと判断されて、総務部購買課倉庫係に職員を配置する合理的理由が全く存しなかったにもかかわらず、同申請人の配属先がないためやむなく右倉庫係に配転された。

右認定の事実によると、会社が当時の客観的状況に照らしその企業判断に基づいて図書室業務の移管、図書室の廃止に踏み切ったこと自体は、企業経営上やむを得なかったものと思われる。しかし、右図書室の廃止に伴って図書室勤務の申請人宏を配転するにあたり、同申請人を総務部購買課倉庫係に配置する合理的理由が全く存しなかったにもかかわらず、前記2(三)認定のような同申請人の職歴、能力、意思等を全く度外視して漫然と同申請人を「隔離部屋」の悪評さえある右倉庫係に配転したことは、会社にしてみれば窮余の一策であったかも知れないが、同申請人に図書室勤務を命じた本件配転命令の当否とも無関連ではなく、客観的にみると業務上の必要性に基づくものとはいいがたい。

以上の次第で、申請人宏に対する本件再配転命令について業務上の必要性ないし合理的理由があったとする被申請人の主張は、結局、失当である。

5  不当労働行為の成否についての判断

そこで、前記1認定の背景事実、前記2認定の本件各配転命令に至る経緯等ならびに前記4の業務上の必要性についての検討を踏まえて、以下、不利益な取扱に当たる申請人らに対する本件各配転命令が果たして不当労働行為となるかどうかを考察する。

前記1で認定したとおり、大阪地労委は、会社の日シ労組ないし同組合員に対する次の諸行為、すなわち(1)小倉副社長の社内放送を通じての発言や会社職制の経理内容説明会における発言、(2)日シ労組の山田執行委員長らに対する降格処分、(3)EDP課の廃止およびこれに伴う同課所属組合員の配転、(4)日シ労組の団体交渉権行使に対する制限、(5)昭和五一年度夏季および冬季一時金の組合間差別、(6)八〇パーセント条項および妥結月払条項の導入、(7)チェック・オフの中止について、これらはいずれも日シ労組を弱体化するためになされたものであり、右(1)の行為は労働組合法七条三号、同(2)の行為は同法七条一号、同(3)(5)(6)(7)の各行為はいずれも同法七条一号および三号、同(4)の行為は同法七条二号にそれぞれ該当する不当労働行為に当たると判断したが、当裁判所も大阪地労委の右判断を正当として是認できるものと考える。しかも、会社は、右の不当労働行為にとどまらず、前記1(四)(九)認定のように、会社職制らを中心として日シ労組の組合員に組合脱退を勧誘し、守る会を結成させ、これに加入させて日シ労組の分裂、弱体化を策動したり、あるいは日シ労組の目ぼしい若手組合員を選んで露骨な組合脱週工作を敢行している。このように、会社は、日シ労組結成後一貫して同組合ないしその組合活動を嫌悪、敵視し、同組合を弱体化させようとの意図のもとに、かなりの長期間にわたって頻繁に露骨な、あるいは巧妙な不当労働行為、反組合的行為を繰り返していることがきわめて明白である。申請人らは、前記2認定のとおり、いずれも日シ労組結成当初からの同組合員であり、同組合結成以来長期間にわたり組合役員を歴任し、昭和四八年五月ころにはいわゆる法廷闘争対策メンバーの要員に選ばれ、いつも組合員の先頭に立って前記のような会社の数々の不当労働行為と闘い、熱心な組合活動家として活発な組合活動を展開してきたものであって、同人らが、反組合的傾向の強い会社から絶えず注目され、嫌悪される存在であったことは疑いの余地がない。さらに、申請人らに対する本件各配転命令の手続についても、前記2で詳細に認定したように、会社が申請人らに対し配転の理由や配転先の仕事の内容等について十分な明示、説明をしなかったり、配転について事前に本人の諒解を得るよう誠意をもって努力したとは認めがたいなど、やや強行的に手続が進められていることが看取される。また、本件各配転命令は、申請人足立、同隆頼の場合は事務職ないし事務的な業務から筋肉労働を伴う雑役作業への配転、申請人宏の場合は専門的な通関業務から単純な図書室業務、さらには現場作業への配転であって、申請人らの職歴、知識、技能、意思等に照らすと、申請人らにとって屈辱感を伴う不利益性の高い配転であると考えられる。もっとも、本件においては、本件各配転命令の直前に、申請人足立の場合は製造部保管課物品倉庫係の廃止、同隆頼の場合は技術部から技術課への格下げ、同宏の場合は図書室の廃止という組織変更が行われ、これに伴って本件各配転命令が発令されているので、当該組織変更の合理的必要性が問題になるほか、さらに申請川宏の場合は倉庫料等の過払問題に対する問責の可否いかんが問題になるが、これらの問題点については既に前記4で検討を加えたとおりであり、本件各配転命令について被申請人の主張するような業務上の必要性ないし合理的理由があったとするには、客観的にみて多かれ少なかれ疑問がある。

以上のような諸事情を総合して考えると、申請人らに対する本件各配転命令は、被申請人の主張するような業務上の必要性に基づくものというより、むしろ、日シ労組ないしその組合活動を嫌悪し敵視している会社が、申請人らが同組合員であることを決定的な理由としてなしたものと判断するのが相当である。したがって、本件各配転命令は、いずれも労働組合法七条一号の不当労働行為に該当するから、申請人の主張にかかるその余の無効理由について判断するまでもなく、いずれも無効であるといわなければならない。

三  本件仮処分申請の適否

1  被申請人は、申請人足立の本件仮処分申請について、「会社においては製造部保管課物品倉庫係なる部署は現在廃止され組織上現存していないので、同申請人を過去の右部署に戻して勤務させることは不可能を強いるものであり、仮に右仮処分申請が右部署を再び新設して同申請人をそこで勤務させよとの趣旨であるならば、裁判所が軽々に経営者の企業経営上の権利を侵害して新部署の設立を命ずることは越権で許されないと考えるべきであるから、右仮処分申請はその余のことを吟味するまでもなく却下されるべきである」と主張する。

しかしながら、申請人足立は、「申請人足立信義は被申請人会社の製造部保管課物品倉庫係の地位を有することを仮に定める」との仮処分申請の趣旨を、最終段階において「被申請人の申請人足立信義に対する昭和五三年七月一日付総務部技術課営繕係への配転命令の効力を仮に停止する」との趣旨に適法に変更していることが訴訟上明らかである。

ところで、労働者が使用者に対して配転命令の無効を理由に配転命令の効力停止を求める趣旨の仮処分は、(1)配転命令前の旧勤務場所ないし旧職種の従業員として労務を提供すべき労働契約上の地位を有することを仮に定める仮処分か、あるいは(2)配転命令後の新勤務場所ないし新職種の従業員として労務を提供すべき義務のないことを仮に定める仮処分の形を変えた表現であると解すべきである。したがって、配転命令の効力停止を求める仮処分申請がなされた場合において、旧勤務場所ないし旧職種が組織上廃止されて現存しないときは、旧勤務場所ないし旧職種の従業員として労務を提供すべき労働契約上の地位は不確定であり、これを確定するに由ないといわなければならないから、もはや右(1)の趣旨の仮処分としては許されないが、反面、労働契約上の地位に不安定な要素を残すとはいえ、右(2)の趣旨の仮処分としては許容され得るものというべきである(ちなみに、この場合裁判所が右仮処分申請を認容するときは、右の理由を明らかにするため主文において右(2)の趣旨の仮処分を命ずるのが相当であると考える)。

これを本件についてみるに、申請人足立の申請の趣旨変更後の本件仮処分申請は、本件配転命令の無効を理由に同配転命令の効力停止を求めるものであり、同配転命令は前記二5判示のとおり不当労働行為に当たり無効であるといわなければならないところ、会社では前記二2(一)(3)認定のとおり昭和五三年五月一五日付で物品倉庫係を廃止する組織変更が行われ、製造部保管課物品倉庫係なる部署は現在消滅して組織上現存していないから、申請人足立が旧勤務場所ないし旧職種である右物品倉庫係において労務を提供すべき労働契約上の地位を有することを仮に定める趣旨の仮処分としては許されないが、反面、同申請人が新勤務場所ないし新職種である総務部技術課営繕係において労務を提供する義務のないことを仮に定める仮処分としては許容されるものというべきである。

したがって、被申請人の右主張は、結局、理由がないことに帰するから、採用できない。

2  被申請人は、申請人隆頼の本件仮処分申請について、「会社においては総務部技術課事務なる地位は職制上現在はもちろん過去においても存在していなかったし、同申請人はもともと正式に技術課事務という、そこで働くことを確認されることにつき法律上の利益を有する地位に就いたこともなかった(もちろん発令もされていない)のであるから、前記1と同様の理由により、また、申請人隆頼に対する本件配転命令は、総務部技術課が過渡期のため新設の技術課内の所属未定のまま、営繕係の仕事をしばらく手伝うことを技術課長から命じられていた同申請人に対し、同課長があらためて技術課内部の業務指揮権に基づいて営繕係の現場の仕事をするように指示したにすぎないものであるから、右仮処分申請はその余のことを吟味するまでもなく却下されるべきである」と主張する。

本件疎明資料によれば、申請人隆頼が本件配転命令当時所属していた総務部技術課にはもちろん、それ以前に所属していた前身の技術部営繕課、総務部施設課にも事務なる組織は職制上設置されていなかったことが一応認められる。

しかしながら、前記二2(二)(1)認定のとおり、申請人隆頼は、かつて所属していた右各部課を通じ約三年半に及ぶ相当長期間にわたり一貫してもっぱら帳簿の記入、文書の作成・分類・整理等事務的な業務に専従してきたこと、しかも、同申請人は、昭和五〇年七月技術部の新設に伴い技術部営繕課に移った際、同課の業務が保全係、電気係、設備係に明確に区分され分担されることになったにもかかわらず、右の三係のいずれにも所属せず、当時のライダース・レーベン技術部長から引続き事務を担当して貰う旨明確に指示され、仕事の内容については問題はないと明言されていること、さらに技術部の解消に伴い同部営繕課が総務部技術課に移行した際、右の三係はそのまま右技術課に引き継がれたが、同申請人だけはやはり右の三係のいずれにも所属せず、引続き事務専任としての持場にとどまったこと、同申請人は、もともと事務職員募集広告に応募して会社に入社し、その後も製造課原価管理部門、経理部電算機課ないしEDP課において終始事務職員として勤続してきたものであり、総務部施設課、技術部営繕課、総務部技術課を通じ一貫して担当してきた事務に深く習熟し、当該事務を担当することに十分な利益を有するに至っていること、以上の諸事実に照らして考えると、申請人隆頼は、本件配転命令当時総務部技術課において事務専任の職員として労務を提供すべき労働契約上の地位を取得していたものと認めるのが相当である。

そして、申請人隆頼に対する総務部技術課営繕係勤務を命ずる旨の本件配転命令は、前記二2(二)(3)のとおり、中川課長心得が同申請人に告知してはいるものの、同課長は右命令の決定者は垣見総務部長であり、自分は入社してまだ間がないので同申請人の職務内容についてはよく知らないと答えている事実に徴しても、会社がなした職種の変更を伴う配転命令の一種であると認められる。のみならず、右配転命令は、同一課内における異動であるとはいえ、事務職から筋肉労働を伴う雑役作業への職種の変更という、重要な労働契約上の地位の変動をもたらすものであることにかんがみても、単に技術課長が同課内部の業務指揮権に基づいて発した職務命令にとどまるものではなく、会社が労働者に対して行使しうる労務指揮権に基づいて発した配転命令に当たるものと解すべきである。

したがって、被申請人の右主張は、理由がないから、採用できない。

3  被申請人は、申請人宏の本件仮処分申請について、「申請人宏は、製造部品質管理課通関係から営業本部図書室への本件配転命令、さらに右図書室から総務部購買課倉庫係への本件再配転命令を命ぜられ、現在右倉庫係に勤務しているものであるが、同申請人において、本件配転命令無効の判断に確信がもてる限り、断固として本件再配転命令を拒否して最初の配転先にとどまっておらないと法律関係を複雑ならしめるうえ、配転拒否に基づく解雇の恐怖は本件配転命令の場合より格段に少ないと考えられるのに、本件再配転命令に再び異議をとどめて従ったことは、本件配転命令が無効の場合には成立しない一時的の現在職への異動という会社からの申込みに黙示的に答えた結果になり、両当事者間に黙示の条件付第二次異動契約が成立し、外観的には事実上の異動が実現したと考えるべきであるから、本件配転命令による配転の場合に比してより自由な自らの意思によって現在職へ異動して勤務を続けているという「不注意ないし浅慮」によって、原職と現在職とのかい離が発生したものというべく、このように自らの意思によって緊急状態のかい離を発生させておいて(自招行為)、その保護を求めることは、仮処分制度として取り上げ得ないものであり、したがって右仮処分申請は他を吟味するまでもなく却下を免れないものである」と主張する。

さらに被申請人は、「申請人宏の被保全権利に関する主張内容は単に本件各配転命令の無効を並列したのみにすぎないところ、本件配転命令が無効であれば本件再配転命令の無効を主張することは無意味なことであるし、また本件再配転命令の無効を強調するのであれば、その前提として本件配転命令の有効を認めざるを得なくなって、主張自体自家撞着を示すものであるから、その主張のみに終始した同申請人の本件仮処分申請は、被保全権利が疎明されず、理由がないものとしても却下されるべきである」と主張する。

しかしながら、前記二2(三)(6)で認定のとおり、申請人宏は、本件再配転命令を受けた場合においても、本件配転命令の場合と全く同様、会社に対し右再配転命令の不当性を抗議し、同命令の取消と通関係への原職復帰を申し入れるなどして、同命令の効力については異議をとどめつつ、右命令違反による解雇その他の不利益処分の危険を回避するため、やむなく同命令に従って現職の総務部購買課倉庫係に勤務しているものであって、同申請人が自らの任意の意思によって本件再配転命令に従ったものと解することは当を得ておらず、また、同申請人に会社からの解雇の危険をも顧みず断固として本件再配転命令を拒否すべきであったと期待することは過酷を強いるものというべきである。そうすると、同申請人が本件再配転命令に従って右倉庫係に勤務したからといって、同申請人が配転命令による配転の場合に比してより自由な自らの意思によって現在職へ異動して勤務を続けるという「不注意ないし浅慮」を犯し、右「不注意ないし浅慮」によって原職と現在職のかい離を発生させたものであるということはできない。

したがって、被申請人の右前段の主張は失当というほかなく、排斥を免れない。

さらに、申請人宏の本件仮処分申請は、本件各配転命令がいずれも無効であることを理由に旧勤務場所たる製造部品質管理課通関係において労務を提供すべき労働契約上の地位を仮に定める趣旨の仮処分を求めるものであって、主張自体何ら自家撞着を示すものではなく、被申請人の右後段の主張もまた失当として排斥せざるを得ない。

4  被申請人は、「もし申請の趣旨どおりの仮処分命令が出された場合は、同命令の存在する限り、被申請人としては終身雇傭制の下で申請人らに対する配置転換権の行使を封鎖されてしまう結果になり、企業経営上由々しい事態が生ずることになるし、申請人らとしても原職復帰以後の昇格や配転を受けられず身分上、経済上の不利益が生しるなど、申請人らにとっても被申請人にとってもきわめて重大な影響を及ぼすものであり、申請の趣旨のような本来浮動である地位を固定化するような命令を発することは許されないものと考えるべきであるから、申請人らの本件仮処分申請はいずれも却下されるべきである」と主張する。

しかしながら、使用者の労働者に対する配転命令の効力について当事者間に紛争がある場合には、労働者としては、右配転命令の無効を理由に、労働者が受ける現在の危険や不安を除去するため、暫定的な法律状態を形成する仮の地位を定める仮処分として、配転命令の効力停止、または配転命令前の旧勤務場所ないし旧職種についての労働契約上の権利存在、もしくは配転命令後の新勤務場所ないし新職種についての就労の義務不存在を仮に定める趣旨の仮処分が許されるものと解するのが相当である。そして、右趣旨の仮処分命令が発令されたからといって、新たな業務上の必要性、その他の事情により、使用者において労働者に対し別の配転命令をすることを妨げられるものではなく、労働者においても昇格や配転を受ける利益を享受できなくなるわけのものではない。

被申請人の右主張は、独自の見解であって、理由がないことは明らかである。

四  保全の必要性

申請人らがいずれも本件各配転命令により肉体的、精神的苦痛を受け、しかも一時金の考課査定や昇進・昇格の面において現に不利益を蒙り、または蒙ったことは前記二2認定のとおりであり、今後もさらに右の不利益を受けるものであることは推認に難くないところである。したがって、申請人らの蒙っている肉体的、精神的苦痛、一時金の考課査定や昇進・昇格の面での不利益を速やかに除去し、申請人隆頼については総務部技術課事務職員としての原職に、同宏については製造部品質管理課通関係の原職にそれぞれ復帰させる必要性があり、また、申請人足立については、原職の製造部保管課物品倉庫係が廃止されて現存しないためやむなく新職務の総務部技術課営繕係の地位にないことを仮に定める必要性があるものというべきであり、申請人らの本件仮処分申請はいずれも保全の必要性が存在する。

五  よって、申請人らの本件仮処分申請はいずれも理由があるのでこれを認容し、保証は事件の性質上申請人らにこれを立てさせないこととし、申請費用の負担につき民訴法八九条を適用して主文のとおり決定する。

(裁判官 竹原俊一)

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